文章をつくっていて困ることがよくある。
簡単な描写でとどめておくか、それとも精緻な描写を駆使すべきか、いつも困る。

文章というものは、とどのつまり、自分の頭のなかのイメージを完璧に読み手に伝達すれば勝ちなのだろうと思う。
これは面白い! と思って書くわけだから、相当かけはなれた感性でない限り、文章を書ききることが出来れば、それは面白いはずだ。

しかし、頭の中にうごめいている全てを文章に書ききるのはとても難しい。それが自由自在に出来ればそれだけで作家になれるのだろうと思う。我々平民は、適当な表現をひとつ探すだけで一苦労する。ともすれば、書いているうちに自分自身でなんだこりゃと思う文章になっている。

書き手にとって、描写というのものが重要になってくるのはそういうこと。
適切な表現であれば、書き手の思い描く世界を読み手に充分に味わってもらえるだろう。しかし、簡単な描写でありすぎると、書き手の思いは充分に伝わらない。精緻な表現にすぎると、今度は読み手に読み飛ばされてしまう。
どうすれば思いが通じるか、そういうことで悩んでしまうわけだ。

でも最近思った。
これらは大きな勘違いだった。

化学合成のように表現は成立していない。
こういうふうに描写をしたから、と言って読み手が全員、書き手の考えたような世界を感じてくれるとは限らない。全てお膳立てをしたから、さあ感じ取れと言ってもそううまくいくとは限らない。どのように言葉を駆使しても受け取る読み手の方が多様なのだ。

それで限界を感じても始まらない。
逆手にとるべきだ。すなわち、表現とは「鍵」だ。
読み手の心になかに眠る世界を表現によって、呼び覚ますと考えるべきだろう。それで感動してもらうことこそ文章の神髄と捉えるべきだ。

至福を知る者には、それを思い出してもらい、
絶望を知る者には、それを思い出してもらえばいい。

しかし、言うは易く行うは難し。
それが自在にできる才能があれば大作家になれる。

才能のない僕は今日ももぞとにらにいぢめられている。

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