ぬりかべは、小学生から成長して、無個性な大人になった。
 そこで、差別についていろいろと考えるようになった。
 しては良くない差別と、しても良い差別の決定的な違いはなんだろう。

 たとえばタバコがある。
 今では、タバコを吸う者は差別しても良いことになっている。飛行機でも列車でもパブリックな場所では原則として「禁煙」である。アメリカなどでは、妊婦の前で吸えば殺人未遂が適用される。
 しかし、昔は違った。
 ちょっと吸うのはやめて下さいよ、と言おうものなら、言った方が非難されていた。うるさい奴だとレッテルを貼られ、差別されるのは当然だった。吸うことが絶対的に正しかった。

 今とは正反対である。
 なぜ、しても良い差別が交代してしまったのか。いつの間にやら、差別の「転換」が行われている。

 タバコは昔、国の基幹税だった。タバコ税がなければ国が成り立たなかった時代があった。タバコの害もそれほど知られていなかったし、国民としては、タバコの害よりも与えてくれるささやかな享楽の方が大事だった。
 しかし、高度経済成長により、タバコの税など取るに足らぬものになった。そればかりか、タバコの税より肺ガンで支払う健康保険税の方が高くなった。タバコの害は繰り返し国民に周知され、タバコと言えば不健康の代名詞になった。

 だから、つまり、タバコについて差別が交代してしまったのは、身も蓋もないことだが言ってしまえば、社会の要請だったのだろうと思う。
 例えば、女性差別などもその典型だ。

 ぬりかべが子供のころまで「女性は家を守って欲しい」と大人たちは口を揃えて言っていた。そういう差別が横行し、威力を備えていたということだ。そのため、差別を恐れて、それに従った女性も多かっただろう。
 しかし、いまや、それを言葉にする者は少なくなった。
 差別が転換した。
 いまや、女性は家に、と言っただけで差別される時代が来たと思う。

 してもよい差別とは、きっと社会自体がそれを選ぶのだろう。これから先、必要だと思われることについて、関連する差別は正当化される。ともすれば法律や規則や道徳となるのだと思う。

 注意すべきことは、今までが間違っていたということではないということだ。
 社会が変わったからなのだ。産業が変換したからなのだ。
 タバコがなくても維持できる社会になったということだ。女性が家を守らなければ成立しない社会ではなくなったからだ。
 それで、今まで正しかった差別が間違ったことになり、間違っていた差別が正しくなった。それだけなのだ。

 そういうわけで、僕たち人類は、薄皮を何層も何層も積み重ねるごとく差別を重ねて生きてきた。差別は決してなくなることはない。ただ、その上に差別を重ねることで無害化させることができるだけなのだ。僕たちは今でも何かの差別に荷担している。差別することでしか僕たちの世界は維持することはできない。一方で、僕たちが絶対だと信じている信念も、10年後、100年後には不当な差別だったと言われる日が必ず来る。

 無個性なぬりかべは今日も、にらともぞに差別をされ、いじめられている。ぬりかべが不当な差別だと言うと、ぬりかべにする差別はしても良い差別なんだよと強弁してくる。

 しかし、ぬりかべの方が正しかったと言われる日が、多分1000年後くらいには来るのではないだろうか?

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