そんなアキではあるが、社会に帰れば一介のサラリーマン、気の弱さを取り戻し優しく自虐的で情けない、しかし純粋な青年に戻る。多分、会社のなかの者どもはもう一人のアキのことを深く知るまい。また、知る必要もないだろう。――僕さえも。
 もう一人のアキのことを知る人間は、きっと世界でアキ一人だけでいい。

 一見、愉快なアキは、右から見ても左から見ても痛快に思え、いろいろな友人や知人から話しかけられる。アキも気軽に応じて軽口を叩く。アキの話は軽妙で、必ず誰も傷つかないオチが待っている。そのため、どのような人間も安心して耳を傾けることができる。――しかし、アキ自身、そのような場所を望んでいるのか。心底、居心地がいいと思っているのかどうか。
 誰ももう一人のアキを見ようとはしない。目の前のアキこそが本物で、ときたま思い立ったように虫取りに出るアキの方を偽物と思っている。

 僕はアキに、慰めがてら言ったことがある。
「昔は魚釣りと言えば本当にどうしようもない田舎者の趣味だったけど、今ではフィッシングと名を変えて、そこそこかっこいい趣味に変わってしまったね。フィッシングに連れて行って下さいと言う女の子もいるくらいだよ。そこで、いつか昆虫採集もハンティングとかコレクションとか名を変えて、かっこいい趣味に変わってしまうかもしれないね――」
 そのようなことを言った。
 すると、アキは、うーんと唸ってから、
「それはない」
 と言った。
「魚釣りと昆虫採集は違う。昆虫採集はどこまでいっても『エゴ』だ」
「エゴ?」
 僕はよく分からない。魚釣りも昆虫採集も大自然に身を投げ込んでいく点では同じはずだ。どちらも学べる物、感じる物は同じなのではないだろうか。

 アキはいつものように、考えてるような考えてないような、眠るような表情を浮かべながら、やや恥ずかしそうに語り始める。
「フィッシングは、魚釣っても、リリースといって逃がすだろう? 昆虫採集は絶対にあれができない。虫を逃がすことはないんだよ。虫取りする者にとっては虫が残らないと絶対にいけない」
 虫は勲章だからね、とアキは言う。
「それに、オオクワガタを一千万円で買ったというマニアの話はたくさんあるけど、魚の剥製や標本をやりとりするマニアの話は聞いたことがない。――虫を自分で捕って、自分の部屋に飾る。それこそが、魚釣りとは違う、昆虫採集の醍醐味なんだろう」
 それでも僕があまりよく分からないと言った表情を浮かべていたせいだろう。アキは続けて、こんな話をしてくれた。
「仲間と虫取りを泊まりがけで行くことがある。行った先で、同好の士と遭遇することもある。――だけど、虫を共同で捕ろうと言う話には絶対にならない。そんなことをしたら虫の奪い合いになる。だから、大体の場所まで到着したら、そこで別れる。別れて探す」
 そうすることで、発見した虫の所有権を明確にする。
「そして、山や森を遭難しながら探索して、自力で見つけるんだ。――誰も知らない自分だけの狩り場を」 
 だけどなぁ、とアキは言う。
「その狩り場が滅多にない、いい虫を産する、いい狩り場だったとしよう。どういう気持ちになると思う?」
「いっぱい採りたいと思うんじゃないかな」
 それ以外にあるんだろうか、と僕は首をひねる。
「それはある。だから、狂ったように虫は採るだろう。だけど、その後の話だよ。採り尽くした後、どんなことを感じると思う?」
「ああ、良かった良かった。採れた採れた、って思うんじゃないの? ここに虫取りに来て良かったなぁって思うんじゃないの? 採れたのを誰か他の人に見せて自慢したいと思うんじゃないの? そして、来年もまた来ようと思うんじゃないのかな?」
「違う」
 アキは断定した。恥ずかしそうな表情をしていた。まるで、覗かれたくない心の奥を見られてしまったと言うようだった。
「そうは、思わないんだ。残念ながら」
 アキは目を閉じて語り続ける。
「その狩り場を壊してしまいたい、と強く思う。自分以外の他人に決して渡らないようにこの世から消してしまいたいと強く思う。――誰よりも立派な虫が欲しいと望む者なら、一度でも立派な虫を得たことがある者なら誰でも、火を付けて辺り一面燃やしたいという衝動に駆られたことがあるはずだ」
 だから『エゴ』だ、とアキは話を締めくくった。

 アキがしてくれたこの話。
 深い感銘を受けてしまった。
 だから、ときおり思い出す。
 アキのような純粋な人間にしたって、やはり自由ではいられないものがある。いや、誰よりも自由でないから、アキは純粋なのかもしれない。
 それが人間なのだ、と言ったところなのか。だったら当然、僕が自由でいられるはずがない。あんまり考えるのは考え過ぎというものだろうけど、それはどんな形をして、どんな色、どんな味がするものだろうと考える今日このごろ。

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