椅子とテーブルがある。
どちらも足があるのは一緒だけど、僕らは一目でそれと分かる。どちらが椅子でどちらがテーブルか見分けることができる。
ナイフとフォークも分かる。どんなに装飾が施されていてもそれと分かる。
まず間違えることはない。
テーブルに座って、椅子に茶を置いて飲む人はいない。
肉をフォークで切って、ナイフで口に運ぶ人は見たことがない。

きっと、僕らの頭のなかにある何かが、椅子とテーブルを直観で区別してくれる。
僕らに教えるのだ。
これがテーブル、あれは椅子。ナイフは鋭い奴で、フォークは三つ叉の奴。
そう、教えてくれているに違いない。

さて、ここに宇宙人がいるとする。
宇宙人は、椅子もテーブルも知らない。
きっと、宇宙の果てでは、椅子もテーブルも使わないからだ。
だから、宇宙人は、テーブルに座って、椅子に茶を置いて飲んでしまうかも知れない。
フォークもナイフも使わずに肉を食べるかもしれない。
宇宙人の特異な体はそれを可能にするだろう。
だけど、翻って考えてみる。
逆に僕らは、宇宙人のことが分からないのではないか。
宇宙人の持ち物の全て、どれひとつとっても何に使う物か理解することはできないのではないか。
なぜなら、知らないからだ。
知らないものは、僕らの頭がいかに優秀でも直観で判断することはできない。
僕らは宇宙人のことを知らないから、宇宙人のことは何一つ理解できないに違いない。 いや、そもそも、宇宙人を見ても、宇宙人を知らないわけだから、宇宙人だと分かるわけがない。いったいどんな姿をして、どんなことが出来る奴が宇宙人だと言うのだろう。

僕は宇宙人と言った。
だけど、宇宙人がどんな奴だとかは言わなかった。
言わなくても、読んでいる人達は、勝手に想像したのではないか。きっと宇宙人はこんな奴だと。
みんながみんな、めいめい勝手に作り上げたのだ。きっと宇宙人はこんな奴だと。
 
僕らの頭のなかにある何かは本当に優秀だ。
宇宙人などという、全く意味不明な存在に対しても、大体こんなやつだろうと当たりをつけてくれる。
しかし、それは本当に当たりだろうか。当たりかどうかなんて分からないはずだ。宇宙人がどんな奴か、確かめる方法などあるわけもないのだから。

それは、宇宙人にとどまらない。
分かっていることの方が実は少ない。
僕らの世界は分からないことだらけのはずなのだ。
僕らはただ分かった気になっているだけだ。
僕らの頭は世界を調和のとれた舞台に演出してくれている。

2000年前の人類は森に妖精を見た。神すらも見た。
それが彼らが見た調和のとれた世界だった。
調和。
その結果である神や悪魔のいる世界。
それが、今の僕らと全く変わらない仕組みの脳を持った人類の見た世界だった。

さて
今の僕らは、何を見ているのだろうか。
世界を調和のとれたものと見なすために、どんな夢や幻想で心を満たしているのだろうか。

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