小学校のころから、あまり先生というものが好きではなかったけれども、高校生になるころだろうか、先生の言ってることと現実の世界に、えらいギャップがあることに気が付き始めた。

先生は言った。
「頑張れば必ず報われる。努力はいつの日か実を結ぶのだ」
それは嘘ではなかったが、事実でもなかったと思う。
頑張っても失敗することが多く、努力が全く実を結ばないことも多かった。
努力は大事だが、その前に工夫こそ必要だった。
古めかしい非効率な方法のまま、繰り返し努力していても、成功させたいことは遠のいていくばかりだった。
だが、先生達の目指す努力の形はそういったものだった。
駄目そうだと思っても一歩も退くべきではない、脇目も振らずがむしゃらに――、そんなことを言っていたような気がする。
それらは、受験勉強の一部にしか効果的ではなかったような気がする。

こんなことも言っていた。
「悪いことをしていればいつか報いがくる。この世に正義はあるのだ」
大嘘だった。
まず、正義があるかはともかくとして、正義とか悪とかの区分け自体が存在しなかった。
人に優しくすることは決していいことではないと分かったし、人に意地悪をすることも悪いことばかりではないと分かった。

また、悪があるとしても、人は誰かのために悪になることが多く、見方を変えれば正義だった。正義と正義の争いしか、この世にはないのだと分かった。
必要なことは、より良い正義を見抜くことだった。
より悪い正義を排除することだった。
また、悪とされているもののなかにも、小さな正義があることを認めることだった。
世の中は○と×だけではなく、その中間の△があり、○と×でしか判断できないような学校の訓練は有益ではなく、無害を通り越し、有害ですらあったような気がする。

そういうわけで、先生達は非常識だった。
新聞にそのような趣旨のコラムを発見するたびに、僕もつくづくそう感じる。
先生の言っていることを体現して生きていたら、相当に生きにくかったろうと思う。視野も確実に狭まっていたろうと思う。世界を窮屈に感じ、人生をつまらなく感じていたのではないだろうか。

しかし、それで先生達に常識を持って欲しいとは、そこまではなぜか、僕は思わないのだ。
それどころか、僕は、いまだに、これからも先生達が非常識であって欲しいと思っている。
「努力は報われる」
「正義は必ず勝つ」
馬鹿らしい。だけど、そのような恐ろしく馬鹿馬鹿しいことを先生達には死ぬまで言い続けて欲しいとなぜか思ってしまう。
なぜだろう。

先生達は非常識だ。しかし、非常識だからこそ純粋でいられる。
純粋だからこそ、言える言葉がある。
低俗にまみれた人間には言えない言葉がある。
そんな言葉が世の中に必要なときがある。
人の見えないところで、人を支えているときがある。

先生達の言動が有害であったという僕の思いは消えようもないけれど、多分、僕はそうとでも思って、無理矢理、先生を愛すべき存在として認識しようとでもしているのだろう。

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