映画を週末に見るのだけれど、アメリカの映画は、能力が認められて出世して幸せになる、という成功話がやけに多い。お国柄なのだろうが、離婚した両親が復縁するような話では、駄目夫が心機一転して大成功を遂げなければ、妻は夫を見直してもくれない。
 成功しなければ幸せになることは許されないのだ。
 それはそれで、努力するべきときに出来ない人間は、現代の僕らの社会のなかでは公然と差別してもよいことになっているので、納得しやすい話ではある。

 しかし、――
 この「能力」が曲者だ。
 努力して得られるモノを技能とでも呼ぶなら、どんなに努力しても得られないものの方を才能と呼ぶことにする。
 技能があれば幸せになれるかもしれないが、才能があったら不幸にしかなれないような気がする。

過去の先人達で、天才として知られる人には、きっと豊富な才能があった。何も得られない貧乏な境遇のなかで、才能という心のなかに眠るモノに人生を狂わされ、筆をとらざるえなかった画家達や実験を繰り返さなければならなかった発明家が大勢いた。彼らは本当は何もしたくなかった。
 ただ、平凡な人生を求めていただけだった。
 しかし、才能が許さなかった。彼らは書かされた。自己の才能に突き動かされて書かされたのだ。書かなければ苦しいし、書いていても苦しい。書き上がったほんのささやかな時間だけ、才能は彼らを解放してくれた。砂時計が尽きて、ひっくり返される短い時間だけ、彼らは幸福を感じることが許された。そして、時が経てば、心に積もる砂のような自己の才能に再び苦しめられた。作品が完成しないとき、彼らは苦しみ抜いた挙げ句、多くは自己崩壊への道を辿ってしまう。

 言ってしまえば麻薬中毒者である。
 自己の才能が与えてくれる一時の快楽のために、全人生をかけてしまう。
 創作活動に携わる僕らも、多かれ少なかれ苦しめられている部分ではないだろうかと思う。

 さて、ネットを巡回していると、創作活動に身を置く余り、苦しみ過ぎている人たちがいる。それだけ、彼らの才能が多大であることを証明しているが、余りにも強大な敵と戦おうとしていたり、場合によっては弱い者いじめとしか見えないような憂さ晴らしに徹しているときがあって、気になることがある。

 世界は決して僕らには微笑まない。
 太古の昔より、世界は残酷なだけだ。
 世界を囲い込んで、閉ざされた閉鎖空間のなかで戦っても、恐らく才能はその人を苦しめ続ける。決して解放などしてくれない。一方で、その人を傷付ける者は世界の代理人などではなく、ただ世界の一部に過ぎない。そのような人と徹底的に戦っても、得るべきものはなにもない。
 才能を駆使して閉鎖空間で世界に勝利しても、人格が世界で認められるわけではない。閉鎖空間は、あくまで閉鎖空間に過ぎない。才能や作品が認められるように、自身の人格が世界に認められることはそれほど多くない。

 賞賛と尊敬がなければ維持できない人格や立場がどれほど危うく不安定なものか、どれほど自分自身を苦しめてしまうか――。世界を変えたいなら、まず自分が変わらなければならない。それは、とてもとても困難ことだけど。

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