先週末に、ジェニファー・ロペス主演の「メイド・イン・マンハッタン」を見た。
 ホテルのメイドさんが何かの間違いで大金持ちと恋をして結ばれるという、よくあるシンデレラ物語だったのだが、嫌みも不自然さもなくて、ロペスが女優として魅力があまり無いこと以外は、悪くない映画だった。

それで気を良くして今週は、これらのご先祖様とでも言うか、名作であるところの「プリティウーマン(1990年)」を見ようという気になって、実際見たたわけなのだけれども、
 ――いや、本当に良かった。
 名作はどんなに画質が悪かろうと、カメラワークが古かろうと、いいものはいいのだと再確認させられた次第。見終わった後、そのままもう一回見てもいいとさえ思えた。

 とにかく無駄な台詞回しが一切ない。
 リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの恋人同士の掛け合いが出来がいいのは当たり前として、脇役であるホテルマンのからみも含めて、鼻につく台詞が一切なかった。実に自然で、あまりに自然すぎて、はじめそのことに気付くことが出来なかった。
 文章ではどうしようもない、映像だけが可能にする役者の演技による感情表現は、注意してみると唸らされること請け合いだ。

 嫌みがないと言えば、恋人二人の関係がある。
 大金持ちの社長と売春婦がそれぞれ反省して結ばれるというあらすじなのであるが、驚くことにお互い説教し合うことがほとんどない。
 恋愛物では、ああしろこうしろと恋人同士言い合うのが常道である。
「メイド・イン・マンハッタン」でも、メイドが金持ちに演説の内容をアドバイスなどしていた。しかし、「プリティウーマン」では全く違う。
 お互いに愚痴を言う。ただ、それを聞いてあげる。
 癒し合うだけなのである。

 社長のギアが、乗っ取り先の老社長に憎んでいた父親の面影を見て、乗っ取りを躊躇していたとき、
「乗っ取りはやめなさいよ」とか、
「老社長がお父さんに見えるんでしょ」とかそのものズバリなことを言って、ヒロインは行動を制限しようとするものだ。
 しかし、売春婦のロバーツはそんなことは言わない。
「あなたは老社長のことが好きなのね」とただ一言、言うだけだ。
 その一言で、乗っ取りを辞めた方がいいんじゃない、お父さんのことを許してあげたら、あなたはお父さんのことが実は好きだったんじゃないのと三重の意味のことをひとくくりにして嫌みなく上品に表現してしまう。
 ――ああ、格が違う。
と思ってしまう。

 そして、乗っ取りをさっぱりと辞めることに決めた社長は、部下に後を託した後、社長室から1階に降り、そのまま外に出て、靴を脱いで芝生を楽しそうに踏み始める。その間、何も説明は入らない。
 この情景で、社長のどんな心情を表現したいのかは明らかだから、説明などいらないということか。
 ――すごい、と思う。

 語り始めると止まらない、名作「プリティウーマン」であるけれど、まだ見たことのない人や、もうすっかり忘れてしまった人は、もう一度見るといいかもしれない。
 始めの20分は音楽も映像も退屈だけど、すぐに14年前の作品と思えなくなることを保証します♪

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