昔見たテレビで、箱の中の猫という話があった。
例によって内容などは忘れているのだが、よほど印象的だったのか、「箱の中の猫」の断片はそれから何十年かたった今も残っていて、時折頭の中の引き出しから取り出しては考える。

ある密閉された箱の中に猫と二種類の餌を入れる。
一つの皿は毒入りの餌、もう一つはただの餌。
空気は供給されている。したがって猫の死の要因は毒入りの餌だけという状況だ。
箱は空気の他は密閉されているから、中の様子は私達には見えない。

猫はどうなったか。

箱の中は見えない。

時間の経過とともに箱の中の猫の生死の可能性は無限に分かれる。

一秒後には猫は毒を口にして死んでいるかもしれない。だが一秒後に口にした餌が毒入りでなければ猫は生きている。一秒後に生きていた猫は一分後には毒を食べているかもしれない。
時点時点で岐路が分れる。
その繰り返し。
ここにおいて、箱内部にはいくつもの平行世界がつくられることになる。

だが、勘違いしてはいけないのは、それは私達の脳の仕事だということだ。

実際は、「箱の中の猫」は、どの時点においても生きている(死んでいる)。そこに時間ごとの岐路は設定されていない。
箱を私達が開ける前から結果は決まっている。
私達が認識する前から、猫の生死は決定されているのである。

時間ごとの岐路を設定し、箱内部にあたかも平行世界があるかのように錯覚させるものとは何か。

それは、私達の持つ「想像力」というものである。

箱の中の猫を私達は想像の目で生かし、殺す。
猫は箱の中にいる限り、実際は例え毒の餌を食べて死に、腐り、形を無くしても、私達の頭の中では変わらず存在する。

しかし、ここで間違ってはいけないのは、繰り返しになるが、私達は私達の確認によって猫の生死を決定するのではないということだ。
箱の中で猫を生かし、殺す想像の力は全能の目ではない。
現実世界、経験とのすり合せによらなければ、ただの戯言、迷信となるのである。

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