ちょうど成人した頃に「人は一人では生きていけないよ、寂しい動物なんだから」と付き合っていた人に言われた。
その言葉を聞いたとき、あぁ、この男も随分知った口をきくものだ、と思ったものだ。
私は人が人を支えて生きている、という言葉が嫌いであった。
詭弁だと思ったりもした。
他人に手を差し伸べないことはなかったが、感情が動かない相手を好んで助けたことはなかった。
助けて、と頭を下げる人間を見捨てたりはしなかったが、一度助けた人間だからといって二度助けるとは限らなかった。
私は他人を自分のテリトリーに入らせなかったし、受け入れられる土壌を作る努力もしなかった。
それでも社会は秩序を失うことは無かったし、私は気楽に生きていけたのだ。

他人から裏切られる行為なんて、どうってことはない、と思っていた。
実際、何があっても平静でいられた。
痛みも特に感じなかった。
人に打たれれば当然痛かったけれど、その後の言葉の暴力が痛かったことはほとんどなかった。
相手を恨むこともあまりなく、どうでも良いと思っていた。
当事者意識が希薄なことが不健全だと思ったこともなかったのだ。

自分と社会を遮断させる生き方は気楽なものだった。
他人に興味を持たなければ裏切られることも、自分が悪者になることもない。
陰口を叩かれても痛みを感じなかったし、逆に悪口を言うことさえなかった。
他人に干渉しない性格は「高潔」だと思われがちで、いつも綺麗な存在でいられる。
嘘をつく必要もなかったし、いつも本音を口に出来た。
本音を言うことで誰かが傷付いたとしても、それが真実だと社会の秩序が認識してくれるから私が痛い思いをすることはなかった。
泣くことも喚くこともなかったから、精神が安定しているという評価を得ることさえ出来た。
その生き方は今思っても美味しいものだ。
だけれど、それでは成長しないのだ。

今でもそういうところが私の中には存在する。
私の基本性向として他人に関心が向かない、というところがある。
話すことが思い浮かばないときは沈黙することを選択する。
沈黙は苦痛ではないので自分からは話しかけない。
興味があってもなくても話を膨らませたりしない。
知らない話をされても質問事項が思いつかない。
……私は自分の心を育ててこなかったのだ。

私は彼と付き合ってから泣き方を憶えた。
一番大切な存在である彼を傷付けては泣いた。
彼が不安がっていることを知って、信じてもらえないと泣いた。
自分の意見が通らなくて、受け入れてもらえないと泣いた。
そして、彼の言っていることが正しいと思い知らされ、悔しくて泣いた。
たくさん心は揺さぶられ、揺さぶられることに恐怖した。
でも心揺れる出来事は悪いことばかりではない。
嬉しくても楽しくても心は揺れるのだと知ると、感情の機微、というものに興味が出てきた。
いつのまにか笑えるようになっていた。
こちらに感情があるのだと知られるようになってからは、私に議論をふっかけてくる人も増えてきた。
色んな価値観があって刺激を受けた。
価値観や常識には流行があるけれど、情報を上手く取捨選択して普遍的な考え方を読み取れる能力が必要だと知った。
たくさん失敗をするようにはなったけれど、助けてくれる人も増えてきた。

他人と関わる生き方を始めて、私は弱くなったと思う。
その所為なのかもしれないが、少しは他人に優しくなった。
人は寂しい動物だとは今もって思えないが、一人で生きていてはもったいないと思っている。
他人に優しくできる人は、自分自身を愛せる人だ。
そして逆もまた真なり、だと良い。
そういう信念を持って今日も些細なことで一喜一憂出来ればいいな。

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