人だったら悩みくらいあるわけで。
 いろいろな機会で、他人の悩みを聞かされることもあるわけで。
 聞かされてしまうと、ぬりかべはそこで大抵、持て余してしまう。

 悩みというのがほぼネタ化していれば、こっちとしても応じやすい。軽口などたたいてゲラゲラ言いながら、みんなで盛り上がってしまえばいいからだ。
 しかし、やけに神妙にされてしまって、こちらの言うことを目を輝かせて聞かれなどすると、不安になってくるのはぬりかべの方だったりする。
(こんなんでいいのかなぁ)
 そんなことを考えながら、適当にみつくろった見栄えの良い言葉を仰々しく並べてごまかしている。後は、悩みを持つ人が脳内補完をしてくれればそれでいい。ぬりかべが何もしなくても、パズルを組むようにつじつまを合わせて、やがて相手はまとめに入ってくれる。納得してくれる。悩みを持つ人は、大抵答えを心の内に持っているものだ。

 しかしまぁ。
 ごくまれに、いやかなり多いのだけれど、困ったことに。
 人によっては、悩みを話しているときこそ、至上の喜びだという人達がいたりする。
 とにかく私の悩みを聞いてくれ、回答などしなくていいから――いやぁ
 これは本当に困ってしまう。

 彼らの悩みは、それなりに個性的ではあるのだ。
 だけど、ぬりかべから見たら、くだらないものに見えることが多い。どうしてもそう見えてしまう。見えるものはしょうがない、とてもごめんなさい。
 だから当然、ぬりかべの興味や好奇心が湧くこともなくて、かくしてぬりかべは疲れてしまう。
 ぬりかべの心が砂漠の状態で、たっぷり一時間は聞かされると、後にはぬりかべの干物が残る。これが、腰や肩に重くのしかかる疲れだったりする。いや本当に。

「悩みを話せて、少しはすっきりした。聞いてくれてありがとう」
 そんなことを疲労の極致で言われたりする。そこで薄ら笑いを浮かべられるぬりかべはとても偉い。
 その人の姿が消えて、ささやかに気力が回復してきたら、残った力を振り絞り、思い出して考えてみる。
 なんかやっぱり、ちょっと違うな、と考えが至る。

 あの人は、さっきの人は…、とるに足らない悩みをことさら深刻にさせて、自分が気持ちよくなりたいために、悩みを語っただけなのではないだろうか?
 そんなことを考える。
 なるほど、自分の心に足りないものを何とか埋め合わせたくて、それで話を誰かにしなければ生きていけないとするならば、それは「悩み」と言ってもいいだろう。
 だけど、やっぱり違う。
 まるで、あの人の悩みはレジャーなのだ。スポーツでもいい。悩みをアピールさせやすくするため深刻そうに見せたり、他人の心に染み渡らせやすくするため社会に散らばった美しい言葉を使ってみたりする、一種のゲームを楽しんでいるように見える。その証拠に、毎週、毎月、同じような情景をあの人は、相手を変え、場所を変え、繰り返している。ぬりかべから見たら、「楽しんでいる」 しかし、あの人に言わせれば、「苦しみにもがいている」
 …

 思うんだけど。
 人には必ず悩みがあるわけで。
 誰もが悩みを持っていて、悩みのない人はいないわけで。
 でも悩み、と言うからには多様な手段を用いて乗り越えていかなければならないわけで、個性的であることを演出したかったんです、とか、実は気持ち良くなりたかっただけでした、なんていうのは醜いと思ってしまう。ごめんな、心の小さなぬりかべ。

 悩みがあるって言うんだったら、ここをこうして乗り越えようと工夫しています、とか頑張っていますとかの話を添えて聞きたいもんだなぁと思う。
 悩みとは、どんな形で僕は持ってます、こんな匂いがして味がしますということじゃなくて、いかにしてそれを調理して呑み込んだかなんじゃないかなと思ったりする。

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