チカラの使い方 担当:ぬりかべ
2004年11月15日 ちょっと飛躍した話を信じろという人に会った。
会ってしまった。
それは、アメザラシ(当然、仮名)さんという女性の人で、彼女が言うには――
「実は、わたしには不思議な力があるんです。未来が分かるんです」
それを、ぬりかべに信じろと。
正直、持て余した。
今度はこれか、と。
でもまぁ。
この類の話を持ち込まれるのは枚挙に暇のない話で、みんなもそれなりに経験があるのではないだろうか。
「わたしには、生前の記憶が残ってるんです」とか、
「ここには自縛霊がいます」とか、
「UFO呼べます」とか――
高校とか中学で、修学旅行中に言い出す奴がクラスに一人くらいいなかっただろうか。
本当にそんなことがあったら面白いだろうなぁとぬりかべも思う。
だから、その程度には信じている。また、それを心底信じ切っている人間というのは確かにたくさんいるわけだから、信じたいという気持ちがこの世に溢れんばかりに存在するというのは忘れてはならないことだと常に思っている。だけど。
――彼らを信用するわけにはいかない。
ぬりかべはそう思っている。彼らを信じて、みんなの運命の選択を委ねたりすることは、なるべく避けなければならないと思っている。
例え話をしよう。
金持ちがいるとする。この金持ちは、すさまじい金持ちであると同時に、世界に二人といないくらいのケチで、かつ銀行すら信用しないほどの人嫌いである。すなわち、金持ちの金は金庫に死蔵されることになる。人のためにも使われず、自分のためにも使われず、かくして死に金となる。
そうなったとき、この金は無いも同然のこととなるのではないか。
金は使わなければ意味がないのだから。
――だから
上記のことも同じことが言える。
未来が見えるとかなんとか、その力が真実かどうかなんて議論しても意味がない。それは金持ちが本当に金持ちかどうかを議論することと同じことで、金庫の中身を確認するまで分からないことだ。得てして、上記の彼らの特殊な力は、日が悪いとかなんとか、証明することが困難であるという宿命を背負ってしまっていることが多い。いや、ほんとに。
だから、重要視しなければならないのは、彼らが金をどのように使うのかである。
――すなわち、その特殊な力というものをどのように使っているかということだ。
修学旅行で霊感があると言っていた人を思い出して欲しい。彼らはそれら特殊な力を神妙そうに語りながら、何を為しただろうか。
ただ、自分の周りにたくさんの人を群れさせたかっただけ、自分が個性的であることを認めさせたかっただけ、…であれば、ぬりかべはそのような人を信用するわけにはいかなかった。
しかし、霊感があるという彼が、日頃は目立たない内気そうな友人の手をとって、
「君には強い守護霊がついているよ。ずっと君を見守っているんだ。きっと、亡くなったお祖母ちゃんじゃないかな」
なんてことを言って、信じるか信じないかはともかくとして、内気な友人を励ますような言動をとったなら、――ぬりかべはその霊感があるという人間を信用するだろう。彼が本当に力を持っているかどうかなんて関係ない。
目の前の誰かを救いたいという気持ち、それが見えたなら、ぬりかべは信用するしかないのだ。
霊能力があるとかUFOが見えるとか、それが真実かどうかなんて関係ないのだ。この世に生きている人間のほとんどが己を強く大きく見せようと腐心しているなかで、彼らの持っている能力だけを偽物だと指摘しても意味がないとぬりかべは考える。
あらゆる備え持った力を、現実世界でどう使っているのか、それを見るべきであると思う。
さて。
翻って。
目の前にいる、アメザラシである。
延々と小一時間、彼女が見える未来について、熱くぬりかべに語ってくれた。くれました。
どうしてだろうか?。
アメザラシの話のなかでは、彼女は誰にも信用されず、報われず、せっかく生まれ持った力を誰も評価してくれない、ということになっている。
そんなはずはあるわけないのに。
だから、ぬりかべは一言だけ聞いた。
「その力が自由に使えたなら、何を救いたいの?」
アメザラシはちょっと考えてから言った。
「世界の全ての人!」
申し訳ないことに、ぬりかべには、世界の全ての人がアメザラシだけを見つめなければならない、恐れ敬わなければならない、というふうに聞こえてしまった。なにより、まず救われなければならない者は、アメザラシ自身だと聞こえてしまった。
思わず脱力。
そして沈没。
会ってしまった。
それは、アメザラシ(当然、仮名)さんという女性の人で、彼女が言うには――
「実は、わたしには不思議な力があるんです。未来が分かるんです」
それを、ぬりかべに信じろと。
正直、持て余した。
今度はこれか、と。
でもまぁ。
この類の話を持ち込まれるのは枚挙に暇のない話で、みんなもそれなりに経験があるのではないだろうか。
「わたしには、生前の記憶が残ってるんです」とか、
「ここには自縛霊がいます」とか、
「UFO呼べます」とか――
高校とか中学で、修学旅行中に言い出す奴がクラスに一人くらいいなかっただろうか。
本当にそんなことがあったら面白いだろうなぁとぬりかべも思う。
だから、その程度には信じている。また、それを心底信じ切っている人間というのは確かにたくさんいるわけだから、信じたいという気持ちがこの世に溢れんばかりに存在するというのは忘れてはならないことだと常に思っている。だけど。
――彼らを信用するわけにはいかない。
ぬりかべはそう思っている。彼らを信じて、みんなの運命の選択を委ねたりすることは、なるべく避けなければならないと思っている。
例え話をしよう。
金持ちがいるとする。この金持ちは、すさまじい金持ちであると同時に、世界に二人といないくらいのケチで、かつ銀行すら信用しないほどの人嫌いである。すなわち、金持ちの金は金庫に死蔵されることになる。人のためにも使われず、自分のためにも使われず、かくして死に金となる。
そうなったとき、この金は無いも同然のこととなるのではないか。
金は使わなければ意味がないのだから。
――だから
上記のことも同じことが言える。
未来が見えるとかなんとか、その力が真実かどうかなんて議論しても意味がない。それは金持ちが本当に金持ちかどうかを議論することと同じことで、金庫の中身を確認するまで分からないことだ。得てして、上記の彼らの特殊な力は、日が悪いとかなんとか、証明することが困難であるという宿命を背負ってしまっていることが多い。いや、ほんとに。
だから、重要視しなければならないのは、彼らが金をどのように使うのかである。
――すなわち、その特殊な力というものをどのように使っているかということだ。
修学旅行で霊感があると言っていた人を思い出して欲しい。彼らはそれら特殊な力を神妙そうに語りながら、何を為しただろうか。
ただ、自分の周りにたくさんの人を群れさせたかっただけ、自分が個性的であることを認めさせたかっただけ、…であれば、ぬりかべはそのような人を信用するわけにはいかなかった。
しかし、霊感があるという彼が、日頃は目立たない内気そうな友人の手をとって、
「君には強い守護霊がついているよ。ずっと君を見守っているんだ。きっと、亡くなったお祖母ちゃんじゃないかな」
なんてことを言って、信じるか信じないかはともかくとして、内気な友人を励ますような言動をとったなら、――ぬりかべはその霊感があるという人間を信用するだろう。彼が本当に力を持っているかどうかなんて関係ない。
目の前の誰かを救いたいという気持ち、それが見えたなら、ぬりかべは信用するしかないのだ。
霊能力があるとかUFOが見えるとか、それが真実かどうかなんて関係ないのだ。この世に生きている人間のほとんどが己を強く大きく見せようと腐心しているなかで、彼らの持っている能力だけを偽物だと指摘しても意味がないとぬりかべは考える。
あらゆる備え持った力を、現実世界でどう使っているのか、それを見るべきであると思う。
さて。
翻って。
目の前にいる、アメザラシである。
延々と小一時間、彼女が見える未来について、熱くぬりかべに語ってくれた。くれました。
どうしてだろうか?。
アメザラシの話のなかでは、彼女は誰にも信用されず、報われず、せっかく生まれ持った力を誰も評価してくれない、ということになっている。
そんなはずはあるわけないのに。
だから、ぬりかべは一言だけ聞いた。
「その力が自由に使えたなら、何を救いたいの?」
アメザラシはちょっと考えてから言った。
「世界の全ての人!」
申し訳ないことに、ぬりかべには、世界の全ての人がアメザラシだけを見つめなければならない、恐れ敬わなければならない、というふうに聞こえてしまった。なにより、まず救われなければならない者は、アメザラシ自身だと聞こえてしまった。
思わず脱力。
そして沈没。
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