アメリカのブッシュ大統領は過去、アルコール依存症だった。
 その前のクリントン大統領は、覚えているだろうか、アダルトチルドレン(機能不全の家族に生まれ、現在大人になった人)であった。
 アメリカの凄いところは、このような精神的な障害を負った過去のある人間でも、それを克服もしくは本人が自覚しているのであれば、不問に付してしまう、それどころか逆に高く評価してしまうところだ。凄まじいばかりの合理主義であり、日本では考えられない話である。
 だからと言って、日本の文化が劣っているわけでも遅れているわけでもない。日本は日本のやり方で、アメリカはアメリカのやり方で、指揮統率する人間を選んでいるというに過ぎない。どちらが優れているかは、歴史を振り返って見なければ決して分からないだろうし、それすらも時間とともに変化するだろう。

 ごめんなさい。何で小難しい話を始めるのかというと理由があって、また妙な相談をふっかけられたから。相手は、ぬりかべより二つ年下のユキワタシという名の女性。ひょんなことからの知り合いである。
「アメリカって本当に信じられない、そう思いません?」
 ファミレスでそう問われて、ぬりかべもそうだねぇと応じた。
 いくらぬりかべでも、天気の話と同様に横暴なアメリカの話を振られれば、政治不信の話よろしく、簡単に会話のキャッチボールくらい出来る。
 しかし、ユキワタシにとってアメリカの話は天気の話とは違うようで、どうしてもアメリカの行いを許せないということだった。不満というか苦情というか、いろいろと申し立て、容易に他の話題に変わることを許さなかった。
 それどころか――、
「平和団体のツアーに参加して、二年ほど平和活動に参加しようと思うんですよ。さしあたってパレスチナとか行って、可哀想な子供を救おうと思うんですよ」
 ほほうー。
 ぬりかべは、心のなかで闇夜のフクロウのような泣き声をあげた。
「誰かが行かないといけないんですよ。行けば何かが分かると思うんですよ。わたしが日本の代表で行って、帰ってみんなにアメリカやイスラエルのひどさを訴えようと思うんですよ」
 ほぅほぅ。
 なるほど、人によっては意味がないとは思わないが、君に限ってはどうだろう。
 旅費はどうする? お金はあるのか?
「貯金が少し、足りない分は親から借りようと思ってるんですよ」
 この…、たわけ。

 ぬりかべは珈琲のお代わりを頼みながら考えた。ユキワタシにかけてあげるべき言葉など、余りにも多すぎて困ってしまった。
 さしあたってすべきことは、ユキワタシが実は何を求めているのか、気付かせてあげることだろうと思った。
 口に出す言葉の額面どおりに欲望を吐露している人間など滅多にいない。ぬりかべを含め多くの人間は、思考の段階で既に自分を偽っているもの。
「人間だれでも、褒め称えられたいものだよ、ユキワタシ」
 彼女はどこまで自己と他者を相対化できているのだろうか。
「わたしは違うんですよ。そんなものいらないんですよ。恵まれない人たちが救われればそれでいいんです。本当ですよ」
 凡人に過ぎないぬりかべは、申し訳ないことに、そのような自己の内部でしか通用しそうにない言葉が、偽りにしか聞こえない。
「違う…。ユキワタシは、単に名誉が欲しいだけだと思う。誰にも出来ないことを何でもいいから成し遂げて、一発逆転してみんなを見返してやりたいとか、立派な自己実現を果たして見たいとか、そう思っているだけじゃないのかと思ってしまう。それが証拠に、何でわざわざ外国に行かなければならない? 高い旅費を払ってまで、親に迷惑を、心配をかけてまで何で」
 ユキワタシが言葉に詰まったようなので、ぬりかべは一気に畳みかけた。
「恵まれない人は日本のなかにもたくさんいるよ。ボランティアは年中、人を募集しているよ。何で地味にそのような活動をしようと思わないの? ユキワタシ、きみは人を救いたいの? 外国旅行に行きたいの? それとも誰でもいいから他人の不幸を覗いて見たいの?」
 ユキワタシの表情がみるみるうちに岩のように堅くなっていった。
「もう、いいです。相談したわたしが馬鹿でした」
 もはや、ぬりかべがどんなに言葉を鋭くしようとも、もはや彼女の心にナイフを突き立てることは出来なかった。

 ぬりかべは失敗した。
 もし本当にぬりかべが見込んだとおり、ユキワタシが求めるものが名誉とか自己実現であったならば、矛盾であるが、それは決してユキワタシに言ってはいけなかったのだ。
 彼女が見たかったものは別なもの。大きくて立派な自分。小さくて立派でない自分を見させられることは、彼女にとって苦痛であり屈辱以外の何物でもなかったのではないだろうか。

 しかし。
 ぬりかべはどうすれば良かったのだろう。再びユキワタシがやってきて同じ話を繰り返すのならば、どのように話をしてあげれば良いのだろうか。

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