多重的な思考 担当:ぬりかべ
2005年1月6日 新年明けましておめでとうございます。
そろそろ正月気分から這い出さないといけない時間帯。いっちょ抱負でも語ろう。
昨年は、いろいろな人の話を聞き、考えさせられた一年だった。
人間なんてちっぽけな存在で、この世で変えられる部分など何もないのではないのか、と思うくらい打ちのめされたこともあった。例えば、ユキワタシとか。
物が溢れるこの時代、それにも関わらず苦しみを背負っている人達はいるわけで、当然ぬりかべの周りにも数え切れないほどいるわけだ。彼らは物的に困っているわけではなくて、ひとえに己の選択した行動や思考で苦しんでいる。
彼らと話していて思うのだ。
「なんでそんな風に考えてしまうの?」 と。
まるで磁石の同極同士のように、彼らはことごとく世界と反発する。
彼ら自身の思考が世界を拒絶させているように思える。世界が彼らを拒絶しているわけでは決してない。
彼らは、世界を醜く凶暴なものに捉える。その一方、自分を哀れで正当で美しいものに飾ってしまう。
そこで、世界はそんな形はしていないよ、あなたもそんな姿をしていないよ、と言ってみたとすると、間違いなく逆上されるか、ひきこもられてしまう。
どうすればいいのだろうか。
どうもしなくていいじゃないか、ほっておけよ。――分かる。それが最も一般的な対処方法であり、現在の時間軸に置いての彼ら自身の価値観のなかでは、「幸せ」に最も近いリアクションであることは分かる。しかも、自分の幸せは自分で掴めと言う現代社会で重きを置かれている価値観に合致するのも分かる。分かるのだけど――
もう少しだけ、ほんの少しだけ、何とかならないものだろうかと思う。
個人の価値観は大事だ。個性の多様化も大事だ。だけど、個人の価値観だけでは計れないものもある以上、個人の価値観だけを拠って立つところにして、世界を必要以上に単純化、矮小化させてしまうことは危険なことだ。
すっぽりと大きく包むように、幾重にも折り重なる薄絹のように、多重的に揺らぎを入れて世界を認識して欲しいと思うのは、贅沢なことだろうか。
…というわけで、今年のぬりかべの抱負は「多重的な思考」。
多重的な思考を模索して研究して、ユキワタシの単純思考に同等に張り合いたい。そうできたら、いいなぁと思っている。
何のことだかよく分からない? はい、多重的な思考とは――
一つ例題を出してみる。
「何か小難しいことを人に説明する場合、
結論を先に話してから過程を話した方がいいだろうか?。
それとも、過程を話してから結論を話した方がいいだろうか?」
よく聞く話だろうけども、あなたなら、どう答えるか?――
さて、答えは言うまでもない。
結論から先に話した方が分かる相手ならば結論から。過程からの方が分かる相手ならば過程から、話せばいい。つまり、相手によって変わる。それは当たり前のことだと思う。おいおいそりゃないだろう、いたずらクイズかよ、と思うかもしれないが、現実はこうなのだとぬりかべは思う。○か×の二者択一など世界には滅多に存在しないから。
おうおうにして△がある。
ゆらぎがあるのだ。認めなければならない。決めつけてはいけない。でなければ、息が詰まる。すでにぬりかべがこうして断言口調で話していることで息が詰まりかけている人がいる。
息が詰まれば人間は生きられない。そんな空気を醸し出す人間のまわりで、他の人間が呼吸することは簡単ではない。だから、そんな人間には、人間が寄りつくことはない。結果、特定の人間が必然的に孤立する。孤立すれば、孤立を愛せなければ生きられなくなる。孤立を愛することは難しい、愛したと自分は思っていても孤立の方が苛むからだ、毎日、毎日、不意に心を引き裂くからだ、誰もいない部屋の中で叫ばずにはいられなくなる、自分を責めるのに限界があるために身近なものから責めざる得なくなる――本当は大切にしたいのに。自分も他人も――。
だから、まだ自分で自分を変える方が安全だ。
しかし、簡単ではない。
今まで孤立して生きて来られたのだという自負心。そして底流に潜む、孤立させられたという復讐心、それが邪魔をして人間は変わることが出来ない…。
それを取り払って欲しいと望む。別にあなたのためにそうして欲しいと言うわけではなくて、あなたの周りにいるあなたが大切にしたいと望んでいる人たちのために、そうして欲しいと切に願う――。
ああ、訳が分からなくなってきた…。
こんなところで、ぬりかべの抱負はおしまい。
待っていてね、ユキワタシ。ハハハハハ。
そろそろ正月気分から這い出さないといけない時間帯。いっちょ抱負でも語ろう。
昨年は、いろいろな人の話を聞き、考えさせられた一年だった。
人間なんてちっぽけな存在で、この世で変えられる部分など何もないのではないのか、と思うくらい打ちのめされたこともあった。例えば、ユキワタシとか。
物が溢れるこの時代、それにも関わらず苦しみを背負っている人達はいるわけで、当然ぬりかべの周りにも数え切れないほどいるわけだ。彼らは物的に困っているわけではなくて、ひとえに己の選択した行動や思考で苦しんでいる。
彼らと話していて思うのだ。
「なんでそんな風に考えてしまうの?」 と。
まるで磁石の同極同士のように、彼らはことごとく世界と反発する。
彼ら自身の思考が世界を拒絶させているように思える。世界が彼らを拒絶しているわけでは決してない。
彼らは、世界を醜く凶暴なものに捉える。その一方、自分を哀れで正当で美しいものに飾ってしまう。
そこで、世界はそんな形はしていないよ、あなたもそんな姿をしていないよ、と言ってみたとすると、間違いなく逆上されるか、ひきこもられてしまう。
どうすればいいのだろうか。
どうもしなくていいじゃないか、ほっておけよ。――分かる。それが最も一般的な対処方法であり、現在の時間軸に置いての彼ら自身の価値観のなかでは、「幸せ」に最も近いリアクションであることは分かる。しかも、自分の幸せは自分で掴めと言う現代社会で重きを置かれている価値観に合致するのも分かる。分かるのだけど――
もう少しだけ、ほんの少しだけ、何とかならないものだろうかと思う。
個人の価値観は大事だ。個性の多様化も大事だ。だけど、個人の価値観だけでは計れないものもある以上、個人の価値観だけを拠って立つところにして、世界を必要以上に単純化、矮小化させてしまうことは危険なことだ。
すっぽりと大きく包むように、幾重にも折り重なる薄絹のように、多重的に揺らぎを入れて世界を認識して欲しいと思うのは、贅沢なことだろうか。
…というわけで、今年のぬりかべの抱負は「多重的な思考」。
多重的な思考を模索して研究して、ユキワタシの単純思考に同等に張り合いたい。そうできたら、いいなぁと思っている。
何のことだかよく分からない? はい、多重的な思考とは――
一つ例題を出してみる。
「何か小難しいことを人に説明する場合、
結論を先に話してから過程を話した方がいいだろうか?。
それとも、過程を話してから結論を話した方がいいだろうか?」
よく聞く話だろうけども、あなたなら、どう答えるか?――
さて、答えは言うまでもない。
結論から先に話した方が分かる相手ならば結論から。過程からの方が分かる相手ならば過程から、話せばいい。つまり、相手によって変わる。それは当たり前のことだと思う。おいおいそりゃないだろう、いたずらクイズかよ、と思うかもしれないが、現実はこうなのだとぬりかべは思う。○か×の二者択一など世界には滅多に存在しないから。
おうおうにして△がある。
ゆらぎがあるのだ。認めなければならない。決めつけてはいけない。でなければ、息が詰まる。すでにぬりかべがこうして断言口調で話していることで息が詰まりかけている人がいる。
息が詰まれば人間は生きられない。そんな空気を醸し出す人間のまわりで、他の人間が呼吸することは簡単ではない。だから、そんな人間には、人間が寄りつくことはない。結果、特定の人間が必然的に孤立する。孤立すれば、孤立を愛せなければ生きられなくなる。孤立を愛することは難しい、愛したと自分は思っていても孤立の方が苛むからだ、毎日、毎日、不意に心を引き裂くからだ、誰もいない部屋の中で叫ばずにはいられなくなる、自分を責めるのに限界があるために身近なものから責めざる得なくなる――本当は大切にしたいのに。自分も他人も――。
だから、まだ自分で自分を変える方が安全だ。
しかし、簡単ではない。
今まで孤立して生きて来られたのだという自負心。そして底流に潜む、孤立させられたという復讐心、それが邪魔をして人間は変わることが出来ない…。
それを取り払って欲しいと望む。別にあなたのためにそうして欲しいと言うわけではなくて、あなたの周りにいるあなたが大切にしたいと望んでいる人たちのために、そうして欲しいと切に願う――。
ああ、訳が分からなくなってきた…。
こんなところで、ぬりかべの抱負はおしまい。
待っていてね、ユキワタシ。ハハハハハ。
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