一言コメント:(伊東四朗の「おれってタフマン」のメロディで以下の歌詞を歌ってみよう)
       < あんたがた、アスラン♪ >
       < おれって、アスラン♪ >
                        以上。

           「鳥か深海魚か」
 
 鳥は大空をはばたき、深海魚は海底に棲む。
 誰もが鳥になりたいと望み、なりえない悲しい現実。
 少なからずの者が自己を鳥だと思いこみ、実は深海魚になっている。

 深海魚は、鳥とは違う。
 ひたすら深海の深淵を覗き、彼女しか見たことがない世界を見続けている。
 深海の底に海底火山が煌びやかに宝石のように輝いていても、「あぁこんなに綺麗だよ、みんなも降りてくればいいのに」 ――言ったところで誰も降りてきはしない。
 なぜ、彼女は深海魚になったのか。
 酷いことを言われ追い払われたからと彼女は言う。仕方が無く安住の地をそこに定めているのだと彼女は言う。わたしはひとりぼっち、と彼女は言う。
 しかし、寂しさは埋めきれず、ときおり海を見上げて言うのだ。
「わたしもそっちに行きたいよ」
 暗闇のなかで、その言葉が空しくこだまする――。

 行ってもいい。自由がある。
 しかし、殺されることを彼女は恐れるため、行くことが出来ない。言葉が視線が彼女を殺す。目に見えないプレッシャーが、水圧のように、深海魚の体をバラバラにしてしまう。
「行けない。行きたいけど、行けない。行けないよぉ」
 深海の底で、誰もいない絶対の孤独の中、彼女は泣き続ける。

 しかし、そこで泣いてもなにも変わらない。

深海魚でもいい。
 例え姿形は醜いと言われてもいい。
 迫害されて虐げられて、深海にしか居場所がなくてもいいじゃないか。
 生きているのだから。
 
「そうは言っても、ここで生きていくのは死ぬより辛いことなの。きっと心が死んでしまう。死ぬのはいや、生きていたい。生きて――」

 ならば、暗闇で光を照らすことはできないか。
 君にしか出来ない光を、僕にも分かるように照らしておくれ。
 そうすれば、少なくとも世界で僕だけは君のところに辿りつける。
 そう、君はひとりじゃない。
 たゆたう大海を恨んでも何も変わらない。
 無数に群れる魚たちを妬んでも何も変わらない。
 恨みと妬みは、君の体を重くして、君を深海に繋ぎ止めている。
 ――それを、外せ。
 君だけがそれを外すことができる。少しずつ、少しずつ、それを外すのだ。
 そして、僕は見られるだろうか。
 君の黒い鱗が次々と剥がれ、白い羽毛に包まれた翼が伸びるのを。
 君よ羽ばたけ。
 深海から勢いをつけて離れ立ち、水しぶきをあげて海を越え、爽やかな風がそよぐ大空に。 

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