その日の九州南部は雪。
怪我人を車に残し、私はスタート地点に向かう。

スーツ姿の2人組…手にはアタッシュケース、足下はスニーカー…あ、この人たちも走るのか。
ナース姿の集団や、天使と悪魔の男たちや、ふんどし一丁の兄さんたちや、宇宙人や…もう、いろんな人たちがそこには立っていた。
それにしても寒い。
何で私はここにいるんだっけか? と自問自答しつつ、ぬりかべの言葉を思い出す。
「完走しなくていいからねー♪」
「携帯番号知ってるよね、リタイアしたくなったら電話してね☆」
…言われなくてもそうするわぃ!
怒りを胸に走り出す。

まぁ、結論から話せば、私はリタイアすることなくゴールすることが出来た。
リタイアしなかったのではなく負けず嫌いなこの性格が、リタイアすることを許さなかったとでも言うべきか。
…実際、後半の10キロは「もうやめよう」という気持ちと「ここまで来たんだから」という気持ちのせめぎ合いであった。
山川駅の手前から左足の付け根を痛めた私は走ることが出来なくなっていた。
山川は海岸沿いで、平地が続く。
平地であれば歩き続けることが出来る――そう思ってしまった自分を15分後の私は呪った。
(上り坂じゃん!)
このマラソンのコースは全行程で見ると高低差が100メートルというド素人にとっては難所である。
しかし、後半の10キロだけを見ても高低差は50メートル近くあるということを私は知らなかったのだ。
(無理だ、上り坂ってありえない…)
目の前を歩く「股間から白鳥の首を生やしたバレリーナ姿の男」の背中を睨み付けながら、ただ歩く。
おそらく彼が目の前の人間でなければ投げ出したであろう。
胸にあったのは「こんな姿の野郎にだけは負けたくない…」という馬鹿な意地である。

そして指宿市内に入り、とある神社の前で泣き崩れる女性を見つけた。
傍らには彼氏と思わしきジャージ姿の青年。
「もう、歩けないよぉ…」
「そんなこと言わないで、あと少しだから、ね? ね?」
(いいなぁ…私は一体何を一人で意地を張っているんだろ…)
あと少しがキツい距離である。
神社の横には用意されていたかのように公衆電話が設置されていた。
(ぬりかべと少し会話しよう…気分転換をしないことには、やはり一人では乗り切れそうにないや…)
番号をプッシュする。
「ツー・ツー・ツー・ツー(ガシャン)」
使えねぇ…話し中かよ、ぬりかべさんよぉっ!
新たに湧き上がる怒りに歩くスピードは増していく。

で。
そんなこんなで無事ゴールしたわけなんですが。
「やぁすっごいねぇ、まさかゴールするとは思わなかったよ♪」
………
「え? 何? すっごい不機嫌で感じ悪いよ☆」
…あんた、携帯通じないってどーゆーことよ?
「暇だから、色んな人と喋ってた♪」
あー。そうですかぁ。そいつぁまた…
「指宿まで来たんだから、温泉いこーぜ♪温泉」
疲れたからもう帰りたい。
「温泉の後は鹿児島市内で肉食おーぜ、肉」
人の話を聞けよっ!

ちなみに。
ヘトヘトでボロボロの状態であるにも関わらず、運転手は私――あんた何しに来たんだ、ぬりかべ…

そして。
ぬりかべの魔の手が一人の女にまた襲いかかろうとしていたのだった…あ、もちろん被害者はあの方です(笑)

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