速水と瀬戸口 担当:ぬりかべ
2005年4月1日 無粋にも、速水と瀬戸口を能力的に比較したとき、
――両者とも、まぁ同じものかなぁ
という気がした。
どちらも切れるし抜け目ない。
加えて、高い潜在能力を持つという設定を与えられ、5121小隊の人間関係のなかで重要な位置を占めている。二人とも欠かせない登場人物である。
だから、ぬりかべが速水を語る上で瀬戸口は欠かせないと思った。
似た者の瀬戸口と対比させれば、速水の特徴が際立つに違いないと思ったわけである。
そう、速水と瀬戸口では、能力は同程度でも個性は全く違う。
違う部分はたくさんあるが、前世の因縁とか宿命とかそんな面倒臭いものを取り除いて、両者の違いとして真っ先にぬりかべが挙げられるもの――それは。
苦しみを前にした人間の暗さの質。
誰でも苦しみを持っている。苦しんでいない人間はいないとも言える。苦しみの大小が人間を分けるのではなく、そこは苦しむポイントが異なっていたり、外部に露出のさせ方が異っている。加えて、苦しみを乗り越えて新しい苦しみを見つけ苦しむ人間と、同じ苦しみに苦しみ続ける人間がいる。
前者が速水で、後者が瀬戸口と言える。大きな苦しみを背負っているところは同じでも、
速水は乗り越えられる。
しかし、瀬戸口は乗り越えられない。というか、乗り越えない。
瀬戸口は足踏みをするのだ、そこに留まってしまう。乗り越える為に失ってしまうものの大きさに躊躇してしまう、それが瀬戸口という男なのだと思う。
これが決定的に瀬戸口という人間を暗くする。瀬戸口を好きになる人間は彼の心の闇まで愛さなければ好きには至れない。うつむいて立ち上がれない惰弱な瀬戸口こそ愛すべきものということになる。
速水は違う。速水は乗り越える。だから、心の闇を愛さなくても、乗り越える瞬間の速水を好きになればいい。逆境を明るく踏破していく速水の姿こそ、愛すべきものということになる。
書く方の立場から言い換えれば、速水は明るく描くことができ、また明るく描くことこそが速水の本質を描くことにもなる。しかし、瀬戸口は暗く描かなければ、その本質部分に迫ることができない。
言ってしまえば、人間としての器が速水の方が大きいのだ。
瀬戸口の器は明らかに小さい。しかしこれは、瀬戸口は愚かだとか優しくないといった領域の話じゃあない。
――速水も瀬戸口も賢くて優しいに決まっている。
問題は、賢さと優しさが周りの人間の理解できる範疇に収まっているかどうかということだ。ちなみに瀬戸口は収まっている。分かりやすい優しさで、いろいろな人間をフォローし、またフォローされてしまうのが瀬戸口。善行にはこしゃくな奴と思われても、茜には瀬戸口の優しさが分かる。
しかし速水の賢さと優しさは、恐らく常人の理解できる範疇ではない。苦しみを乗り越えて、やがて最強に至らなければならない速水は、他人の理解の及ばないレベルでの賢さと優しさを発揮する。当然、誰も速水のことを理解しない。有り難がられることはない。速水のことが誰にも分からない。滝川には不気味がられ、茜には狡い奴ぐらいにしか思われない。
速水は絶対的に孤独なのだ。瀬戸口の孤独とはまた質が違う。
瀬戸口が大地を駆ける一匹狼であれば、速水は天空を滑空する鷹である。
狼には暖かい森があっても、鷹には吹きすさぶ寒風があるのみだ。しかし、速水はそれでいい。それが速水だ。どうしようと思っても、どうにもならない。物心ついたときからそうだったはずだ。この他世界とは完全に孤立した、才能の及ぼす孤独こそ速水の最大の心の闇。
変化をし続ける速水についてこれることが出来るのは、世界でただ一人、芝村舞だけ、ということになる。
――両者とも、まぁ同じものかなぁ
という気がした。
どちらも切れるし抜け目ない。
加えて、高い潜在能力を持つという設定を与えられ、5121小隊の人間関係のなかで重要な位置を占めている。二人とも欠かせない登場人物である。
だから、ぬりかべが速水を語る上で瀬戸口は欠かせないと思った。
似た者の瀬戸口と対比させれば、速水の特徴が際立つに違いないと思ったわけである。
そう、速水と瀬戸口では、能力は同程度でも個性は全く違う。
違う部分はたくさんあるが、前世の因縁とか宿命とかそんな面倒臭いものを取り除いて、両者の違いとして真っ先にぬりかべが挙げられるもの――それは。
苦しみを前にした人間の暗さの質。
誰でも苦しみを持っている。苦しんでいない人間はいないとも言える。苦しみの大小が人間を分けるのではなく、そこは苦しむポイントが異なっていたり、外部に露出のさせ方が異っている。加えて、苦しみを乗り越えて新しい苦しみを見つけ苦しむ人間と、同じ苦しみに苦しみ続ける人間がいる。
前者が速水で、後者が瀬戸口と言える。大きな苦しみを背負っているところは同じでも、
速水は乗り越えられる。
しかし、瀬戸口は乗り越えられない。というか、乗り越えない。
瀬戸口は足踏みをするのだ、そこに留まってしまう。乗り越える為に失ってしまうものの大きさに躊躇してしまう、それが瀬戸口という男なのだと思う。
これが決定的に瀬戸口という人間を暗くする。瀬戸口を好きになる人間は彼の心の闇まで愛さなければ好きには至れない。うつむいて立ち上がれない惰弱な瀬戸口こそ愛すべきものということになる。
速水は違う。速水は乗り越える。だから、心の闇を愛さなくても、乗り越える瞬間の速水を好きになればいい。逆境を明るく踏破していく速水の姿こそ、愛すべきものということになる。
書く方の立場から言い換えれば、速水は明るく描くことができ、また明るく描くことこそが速水の本質を描くことにもなる。しかし、瀬戸口は暗く描かなければ、その本質部分に迫ることができない。
言ってしまえば、人間としての器が速水の方が大きいのだ。
瀬戸口の器は明らかに小さい。しかしこれは、瀬戸口は愚かだとか優しくないといった領域の話じゃあない。
――速水も瀬戸口も賢くて優しいに決まっている。
問題は、賢さと優しさが周りの人間の理解できる範疇に収まっているかどうかということだ。ちなみに瀬戸口は収まっている。分かりやすい優しさで、いろいろな人間をフォローし、またフォローされてしまうのが瀬戸口。善行にはこしゃくな奴と思われても、茜には瀬戸口の優しさが分かる。
しかし速水の賢さと優しさは、恐らく常人の理解できる範疇ではない。苦しみを乗り越えて、やがて最強に至らなければならない速水は、他人の理解の及ばないレベルでの賢さと優しさを発揮する。当然、誰も速水のことを理解しない。有り難がられることはない。速水のことが誰にも分からない。滝川には不気味がられ、茜には狡い奴ぐらいにしか思われない。
速水は絶対的に孤独なのだ。瀬戸口の孤独とはまた質が違う。
瀬戸口が大地を駆ける一匹狼であれば、速水は天空を滑空する鷹である。
狼には暖かい森があっても、鷹には吹きすさぶ寒風があるのみだ。しかし、速水はそれでいい。それが速水だ。どうしようと思っても、どうにもならない。物心ついたときからそうだったはずだ。この他世界とは完全に孤立した、才能の及ぼす孤独こそ速水の最大の心の闇。
変化をし続ける速水についてこれることが出来るのは、世界でただ一人、芝村舞だけ、ということになる。
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