世界標準というか常識として「自分は無宗教である」と発言することは良くないことらしい。
日本では「政治、宗教、野球の話は論争の元」と言われたりする(というか私の父が言っていた)
ちなみに私は信心を傾けるような宗教を持たないし、基本的には宗教が好きではない。昔はハッキリ言って「嫌い」だった。
信じるものと信じないものの間にある、どうしようもない温度差――これが家族をバラバラにしてしまう原因になってしまうからである。

でも「嫌い」って宗教に関して勉強不足だから言えることかな、と5年ほど前に思い直した。
それなりに書物を読んだり話を聞いたりしていくと、別に「嫌い」ではなくなった。
言うなれば「分かった、好きにしておくれ」という心境になったということである。ある意味「嫌い」より悪くなったような気がするが、おかげで不要なケンカもせずに済むので私としては助かっている。

私が8歳だった時、幼稚園時代の友達が亡くなった。
私はもう憶えていないが、葬式の時に言った私の発言は、おおいに母を悲しませたという。
「神様のところに行くんだから、幸せだね」
私の通っていた幼稚園は、つまり宗教系の学校だった。幼稚園には問題がないのだが、そこに通っている生徒の親が宗教活動に熱心で、私はその影響から子供用の宗教書を読んでいた。
人の死がどんなものかも知らないで、本の受け売りを口にしたのだ。
以来、母は宗教の醜さ、人の死について、戦争の話、を私に教え続けた。母の実家は、宗教問題で手酷い経験をしていたのだ。

気がつけば私は宗教が「嫌い」になっていたワケなんだけど。

先日、父方の祖母に写真を送ったところ、彼女が泣きながら電話をかけてきた。
送ったのは私の子供の写真。
祖母は子供が元気に育つことを想像だにしてなかったそうで、予想外に元気そうな子供の様子に泣いてしまったのだそうだ。
そして一言。
「子供の健康を祈願するから、旦那さんの生年月日を教えなさい」
――祖母はとある新興宗教の「先生」をしているのだった。

言われた瞬間「やだなぁ…やばいなぁ」と素直に思った私だが、何かに祈らなければ落ち着かないであろう彼女の気持ちを受け取ることにした。
私が子供の生命力を信じるしかないように、祖母にとっては信仰の見えざる力に頼るしかないのである。
それで日常生活を安寧に過ごせるというなら、私が言いたいことは特にない。好きにしてください、という心境だ。
私が見ている現実を、私以外の人間も見なくてはならない、なんていう道理はないのだ。
ましてや私の家族を本当に心配してくれる人に「宗教絡みのことはゴメンだよ」なんてこと言えないし、まぁ言う必要もないんだけど。

それに、私が子供の生命力を信じることと、祖母が見えざる力を頼ること、この二つの違いって、思うほど大きくないような気がしてる。
私もまた、心が平和でいられるように、自分に暗示を掛けて生きているのだと感じている。

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