魔法使いハウルと火の悪魔を読んで 担当:ぬりかべ
2005年12月25日 最近の口癖:「おいらはひのあくま、かるしふぁぁさ」
「おいらはひのあくま、かるしふぁぁさ」
「おいらは――――」(エンドレスで繰り返す)
魔法使いハウルと火の悪魔(日本語訳原作本)を読んで〜
映画とかなり違う。ジブリは原作からかなり変えているのが分かった。
一度、バラバラに解体して、ジブリなりの再構成をかけたんだろう。戦争なんかしてないし、サリマン先生やくどころが違って性別すら違うし。いやほんと、いろんな意味で、ジブリは、やる。
著者紹介には、原作者はトールキン先生の講義を受けたことがあると書いてある。著作の発表は1986年。だからなのか、時代がそうさせたのか、不要とも思えるようなだらけた表現が少なくなかった。しかし、読む人のことを全く考えない、読むのを途中で断念させられる、もしくは読み飛ばしを余儀なくさせられる、かのトールキン先生ほどじゃない。この原作は、一定のテンポでさくさく読み進めることができ、正直、面白いと思った。伏線がきちんと張られてあって、律儀にどんでん返しが用意されていた。それはハリポタほどではないが、かなり洗練されており職人技を感じた。
この作品と著者は、トールキンが興し、オタク化していったD&Dワールドとは対極に位置した存在だったのだろうか? というかイングランドにはこういう硬派なファンタジーの流派が確固として存在しているということなのか。であれば、トールキンが著作を発表した時期が1930〜1960年だから、著者は、トールキンの絶大なる影響下で限られた表現方法に苦しみながらも、力を蓄えて飛躍した実力派に違いない。
http://www.tv-game.com/ring.htm
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/playdd/
原作は、三姉妹少女の長女であるということと、ハウル瀬戸口がソフィ壬生屋への愛を見いだすということが主題だった。だから、何を訴えたいかさっぱり分からない出来の悪い反戦映画の宮崎作品は、やはり原作の正統性を帯びるものではない、と断言できる。
だが、そもそもこの原作は、ハリポタ並みのエンターテイメントでしかなかったのではないか。キャラは軽薄で、ときとして理不尽な行動をとったからだ。これは、作者のご都合主義としか思えなかった。一定のテンポで不合理に物語の方向性がぐるぐる変わって、ひょっとしてこれは連載物だったのではないかと疑ってしまった。やはり、呪いをかけられて葛藤なしに即座に旅に出るソフィの姿はおかしいと思った。ポップでいくのかと思ったら、ソフィの性格はどちらかというと小説の流れにネガティブで、まるっきり噛み合わないと思った。ポップならポップで押し通して欲しかったし、ネガティブならネガティブで、途中からポップに切り替わるべきだろう。べたではあるが、どん底から這い上がったソフィが、ハウルを変え、カルシファの命を救い、小説世界の闇を晴らすべきだったのではないか。というのが、これから物語の終局というところで、ソフィがへまをやらかして、ハウルもカルシファも危なく死ぬところでしたという原作の流れにかなり抵抗があったからだ。ソフィが精神的に成長したところを、逆にソフィをへたれ化させてどうしようというんだ? 著者は読む人を面白がらせればそれで良かったのだろうか。ならば、ハリポタ並のエンタメ作品というのは褒め言葉と言うことになる。
…ぬりかべはソフィに世界を救って欲しかった。
とどのつまり、原作時点でソフィがかなり矛盾しているのをジブリはジブリなりにフォローしたのだろう(ひょっとすると著者のダイアナのセンス自体が映像化に向いてないのかも。アリスを映像化してもつまらないのと同じ)。姉妹の関係をクローズアップさせても、さほど原作でうまく演出しきれていたとは言えないから(序盤は良くても終盤はかなり駄目)、かなり作りかえていかなければならず、それならいっそ戦争をでっちあげてしまい、空中戦と妖怪を出した方がメリハリがつくと思ったのではないか。ハウルの瀬戸口ぶりを演出しても、後半で盛り返して実はソフィが好きだと持って行くのは至難の業であるから、ひたすらハウル萌えに走ったのではないか。
とにもかくにも、原作の映像化の困難さにつけこまれ、足下を見られた挙げ句の改変だったのではないかと思う。
ジブリは頑張ったと思う。でも、二回目見るのはもうちょっと時間が欲しい。
PS:カルシファのキャラは素晴らしいと思う。
悪魔=流れ星=へたれの構図は正直、思いつかないと思う。
原作者はトールキンやルイスキャロル並にやばい人なのかもしれない。
「おいらはひのあくま、かるしふぁぁさ」
「おいらは――――」(エンドレスで繰り返す)
魔法使いハウルと火の悪魔(日本語訳原作本)を読んで〜
映画とかなり違う。ジブリは原作からかなり変えているのが分かった。
一度、バラバラに解体して、ジブリなりの再構成をかけたんだろう。戦争なんかしてないし、サリマン先生やくどころが違って性別すら違うし。いやほんと、いろんな意味で、ジブリは、やる。
著者紹介には、原作者はトールキン先生の講義を受けたことがあると書いてある。著作の発表は1986年。だからなのか、時代がそうさせたのか、不要とも思えるようなだらけた表現が少なくなかった。しかし、読む人のことを全く考えない、読むのを途中で断念させられる、もしくは読み飛ばしを余儀なくさせられる、かのトールキン先生ほどじゃない。この原作は、一定のテンポでさくさく読み進めることができ、正直、面白いと思った。伏線がきちんと張られてあって、律儀にどんでん返しが用意されていた。それはハリポタほどではないが、かなり洗練されており職人技を感じた。
この作品と著者は、トールキンが興し、オタク化していったD&Dワールドとは対極に位置した存在だったのだろうか? というかイングランドにはこういう硬派なファンタジーの流派が確固として存在しているということなのか。であれば、トールキンが著作を発表した時期が1930〜1960年だから、著者は、トールキンの絶大なる影響下で限られた表現方法に苦しみながらも、力を蓄えて飛躍した実力派に違いない。
http://www.tv-game.com/ring.htm
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/playdd/
原作は、三姉妹少女の長女であるということと、ハウル瀬戸口がソフィ壬生屋への愛を見いだすということが主題だった。だから、何を訴えたいかさっぱり分からない出来の悪い反戦映画の宮崎作品は、やはり原作の正統性を帯びるものではない、と断言できる。
だが、そもそもこの原作は、ハリポタ並みのエンターテイメントでしかなかったのではないか。キャラは軽薄で、ときとして理不尽な行動をとったからだ。これは、作者のご都合主義としか思えなかった。一定のテンポで不合理に物語の方向性がぐるぐる変わって、ひょっとしてこれは連載物だったのではないかと疑ってしまった。やはり、呪いをかけられて葛藤なしに即座に旅に出るソフィの姿はおかしいと思った。ポップでいくのかと思ったら、ソフィの性格はどちらかというと小説の流れにネガティブで、まるっきり噛み合わないと思った。ポップならポップで押し通して欲しかったし、ネガティブならネガティブで、途中からポップに切り替わるべきだろう。べたではあるが、どん底から這い上がったソフィが、ハウルを変え、カルシファの命を救い、小説世界の闇を晴らすべきだったのではないか。というのが、これから物語の終局というところで、ソフィがへまをやらかして、ハウルもカルシファも危なく死ぬところでしたという原作の流れにかなり抵抗があったからだ。ソフィが精神的に成長したところを、逆にソフィをへたれ化させてどうしようというんだ? 著者は読む人を面白がらせればそれで良かったのだろうか。ならば、ハリポタ並のエンタメ作品というのは褒め言葉と言うことになる。
…ぬりかべはソフィに世界を救って欲しかった。
とどのつまり、原作時点でソフィがかなり矛盾しているのをジブリはジブリなりにフォローしたのだろう(ひょっとすると著者のダイアナのセンス自体が映像化に向いてないのかも。アリスを映像化してもつまらないのと同じ)。姉妹の関係をクローズアップさせても、さほど原作でうまく演出しきれていたとは言えないから(序盤は良くても終盤はかなり駄目)、かなり作りかえていかなければならず、それならいっそ戦争をでっちあげてしまい、空中戦と妖怪を出した方がメリハリがつくと思ったのではないか。ハウルの瀬戸口ぶりを演出しても、後半で盛り返して実はソフィが好きだと持って行くのは至難の業であるから、ひたすらハウル萌えに走ったのではないか。
とにもかくにも、原作の映像化の困難さにつけこまれ、足下を見られた挙げ句の改変だったのではないかと思う。
ジブリは頑張ったと思う。でも、二回目見るのはもうちょっと時間が欲しい。
PS:カルシファのキャラは素晴らしいと思う。
悪魔=流れ星=へたれの構図は正直、思いつかないと思う。
原作者はトールキンやルイスキャロル並にやばい人なのかもしれない。
コメント