善か悪か。損か得か。 担当:ぬりかべ
2006年5月20日 何かちょっとした失敗が持ち上がったときに、
「わたしが悪かった。とんでもないことをした。次からは気をつけよう」
ってヘヴィに考えてしまう人と、
「ありゃ、これは損だった。次からは得になるように行動しよう」
ってポップに考える人がいる。
一見すると、性格の違いに過ぎず、あまり変わりがないんじゃないか、と思うかもしれない。しかし、そこは、大いに違うんですよ。
誰だって自分が悪だと簡単に認めるわけがない。問題を追及されたとき、「言われたとおりにした」とか「聞いてない」だとか「自分が悪いわけでなくあいつの方が悪い」とか、事態の改善や問題の解決に全く役立たない議論に突入してしまう。それは、善悪の正否をはっきりさせないと話し合いが進まないということで、とどのつまり、解決には時間がかかってしまうことになる。
一方で、損得は話が早い。
どれが損でどれが得だってのは、金銭や労力に置き換えての話がしやすい。それが他人のものであっても比較的分かりが早い。100円損するのと100円得するのはどっちがいいだろうかって議論は時間をかけてするまでもない。
だからこそ、合理主義と資本主義は発展したと言わんばかりになるが、物事を客観的に捉え、問題点を把握し、システムを再構築することでミスを防ぐ体制を整える、というのはすこぶる効率が良いことだ。
「わたしは全然、悪くない。おまえが気をつけろ」
「わたしが全面的に悪かった。これから気をつけるから」
実は、どちらの態度も将来の利益を確実なものとはしない。しかも、そこに至るまでに様々な紆余曲折と長い時間と多大なエネルギーを必要としたかもしれない。とても、もったいない感じがする。
「わたしは悪かったかもしれないし、悪くなかったかもしれない。しかし、それは一時、棚に置いて、失敗は起こるべくして起こったと考えた場合に、何が原因で失敗がこったのかを話し合ってみよう」
こうなければ、失敗は繰り返され、不毛な善悪論議が繰り返される。
しかし、面白いことに善悪感覚に優れたヘヴィ思考の人に、ポップ思考も必要だということを伝えようとすると、
「そういう物の考え方ができないわたしが悪いって言うんですか?」
と言われる。手が出せない、そこはもう理屈ではないのかもしれない。
ちなみに現代では悪徳とすら見られかねないが、中世の時代は、「禁欲」と「忍耐」が美徳とされた。貨幣経済の未発達や厳しい身分制と教育の格差がある時代に、合理主義的思考で物事を解決していくのは困難で、人間がなんとか現実と和合するために「禁欲」や「忍耐」が必要だったのだと思う。不満や論理的矛盾があっても我慢することが、西洋では神の御心に沿い、東洋では礼に適うことだったのではないだろうか。いまでこそ僕らの時代は、「禁欲」や「忍耐」はなんですかそれ、と言った態度がとれるものの、経済的に貧しくなっていることに気づけば、嗜好も思考も変わっていく可能性がある。好まれるアニメや漫画のキャラ設定も変化を遂げていくと思う。
「わたしが悪かった。とんでもないことをした。次からは気をつけよう」
ってヘヴィに考えてしまう人と、
「ありゃ、これは損だった。次からは得になるように行動しよう」
ってポップに考える人がいる。
一見すると、性格の違いに過ぎず、あまり変わりがないんじゃないか、と思うかもしれない。しかし、そこは、大いに違うんですよ。
誰だって自分が悪だと簡単に認めるわけがない。問題を追及されたとき、「言われたとおりにした」とか「聞いてない」だとか「自分が悪いわけでなくあいつの方が悪い」とか、事態の改善や問題の解決に全く役立たない議論に突入してしまう。それは、善悪の正否をはっきりさせないと話し合いが進まないということで、とどのつまり、解決には時間がかかってしまうことになる。
一方で、損得は話が早い。
どれが損でどれが得だってのは、金銭や労力に置き換えての話がしやすい。それが他人のものであっても比較的分かりが早い。100円損するのと100円得するのはどっちがいいだろうかって議論は時間をかけてするまでもない。
だからこそ、合理主義と資本主義は発展したと言わんばかりになるが、物事を客観的に捉え、問題点を把握し、システムを再構築することでミスを防ぐ体制を整える、というのはすこぶる効率が良いことだ。
「わたしは全然、悪くない。おまえが気をつけろ」
「わたしが全面的に悪かった。これから気をつけるから」
実は、どちらの態度も将来の利益を確実なものとはしない。しかも、そこに至るまでに様々な紆余曲折と長い時間と多大なエネルギーを必要としたかもしれない。とても、もったいない感じがする。
「わたしは悪かったかもしれないし、悪くなかったかもしれない。しかし、それは一時、棚に置いて、失敗は起こるべくして起こったと考えた場合に、何が原因で失敗がこったのかを話し合ってみよう」
こうなければ、失敗は繰り返され、不毛な善悪論議が繰り返される。
しかし、面白いことに善悪感覚に優れたヘヴィ思考の人に、ポップ思考も必要だということを伝えようとすると、
「そういう物の考え方ができないわたしが悪いって言うんですか?」
と言われる。手が出せない、そこはもう理屈ではないのかもしれない。
ちなみに現代では悪徳とすら見られかねないが、中世の時代は、「禁欲」と「忍耐」が美徳とされた。貨幣経済の未発達や厳しい身分制と教育の格差がある時代に、合理主義的思考で物事を解決していくのは困難で、人間がなんとか現実と和合するために「禁欲」や「忍耐」が必要だったのだと思う。不満や論理的矛盾があっても我慢することが、西洋では神の御心に沿い、東洋では礼に適うことだったのではないだろうか。いまでこそ僕らの時代は、「禁欲」や「忍耐」はなんですかそれ、と言った態度がとれるものの、経済的に貧しくなっていることに気づけば、嗜好も思考も変わっていく可能性がある。好まれるアニメや漫画のキャラ設定も変化を遂げていくと思う。
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