友人Yは、妊娠中毒症を患いながら一児を出産し、そして本人は出産後も何故か病状が良くならず三週間も入院した経験を持つ。
出産直後の三週間を医師の管理下におかれたYは、退院して二週間が過ぎても乳児に対する違和感を払拭できずにいた。
「この人は看護師さんが好きなの。私よりも私のお母さんが好きなの」
苦労して産んだ我が子を「この人」と呼ぶ彼女は、幼稚園教員の免許を持つ子供好き――

私がYと会ったとき、彼女は必死に授乳をしている最中であった。
わずか一時間半の滞在中に彼女が授乳を試みること三回。
上手に飲めない赤ちゃんは弱々しく泣き通しで、二人ともぐったりとした状況であった。

***

翻って私である。

突然の出産で何の心構えも準備もしていなかった私にとって、息子の存在は他人のようであった。
出産の記憶もないし、一ヶ月以上、彼に触れることさえ叶わなかった。
いつも眺めているだけの関係。

何ものにも代え難いと思うようになったのはいつ頃からだろう。

息子は授乳に関しては反抗的で、病院スタッフ総出の三週間の訓練も実を結ばずに、すぐに哺乳瓶ベイビーとなった。
その時期の失望というか焦燥感は激しく、自分の子供のようでいて自分の子供とは思えないように感じたものだ。
早く産んじゃったから。
病院にずっと閉じこめてたから。
しなくてもいい痛みや恐怖を与えてしまったから。
だから息子は私を受け入れてくれないのかもしれない。
…私たちには親子の絆が無いみたいだ。

必ずしも「お母さん」じゃなくても良い息子との関係は、しばらくの間、私にとっては苦しいものだった。
他の人から「大将にはお母さんいらないね」と言われても、事実を突きつけられたように感じて「そうですね」と笑っている自分が滑稽だった。
そして、一番身近な家族である夫が決して私の苦悩を理解できないと分かったとき、私は考えを変えることにした。
息子は私だけのものじゃなく、みんなの財産だ。
彼が皆に愛されて育つのならば、私はもう、その他大勢の存在でも構わない。
はっきり言って、母親としての責任を放棄することにしたのである。

そう割り切ってから気が楽になった。
周囲の雑音は、とりあえず耳に入らなくなっていた。
せめて夜寝るときは添い寝してあげよう。
抱き癖なんて気にせずに、いつまでだってだっこしてあげよう。
息子を愛してくれる人たちには感謝の気持ちを忘れずにいよう。

そうして真っ直ぐに息子を愛せるようになった私は、いつしか彼がかけがえのない存在となるようになった。
私だけを見てくれなくても、私は息子が大切で愛おしい。
元気で笑ってくれるなら、それだけで幸せ………

***

「まぁ二人で苦労していくうちに、笑い合う明日も来るでしょうよ」

妊娠中毒症にさえならなければ万事がうまく運んだはずなのにと悔やんでいるであろうYに、私から言うべき事は何もなかった。
本音としては赤ちゃんが可哀想とも思ったけれど、実は多分思うほど可哀想じゃない。

この出来事から二ヶ月が経った。
「ようやく授乳が三時間おきになったのよ」
ひどく楽しそうに話すYの声に、母性は子供に育てられるものなんだなぁと思った。

私はと言えば。
最近とっても活動的な大将に対して「ダメ、いけません、泣いちゃうよ」を連呼する毎日である。
母親としての責任を放棄するのだと口でいっても、やはり躾と安全に関する事項は無視して通れるものじゃなく…叱ったり泣いたりぶつかり合ったりして、親子の絆を深めていくのだろう。

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