初日の午前中、鹿児島-屋久島間を往復する前に、日程としてやむなく鹿児島-福岡間を往復した。鹿児島-屋久島間を10往復したかったが、午前中が満席だったから他の路線を使うしか仕方がなかったのである。空いているチケットを時間順に取っていったが、それにしても、この時期の平日に満席などありえないことだった。鹿児島-福岡間もほとんど満席で数席しか残っておらず、すべりこみでどうにか取れたような状態だった。
 この枯れ木に花の賑わいはどうしたことだろうか。件の日本航空のキャンペーンがあったからだろうか? とも思ったが、まさか平日にそんな酔狂なことをする人間がそんなにいるとも思えなかった。自分もたまたま休みで都合が合わなければ、こんな面倒くさいことはしなかったはずだからだ。
 別に観光をするでもなく、単に飛行機に乗りまくるだけである。旅の本筋からは外れていることこの上ない。とどのつまり尊敬されることではない。しかし、その結果、終身の会員資格がついてくる。これはこれ、それはそれである。自分に言い聞かせて、なるべく目立たないように、誰にも気付かれず、淡々と二日間の修行を終えよう。そう強く望んでいたのだった。
 ──ところが
 福岡に着陸する直前である。
 福岡空港から東京やら韓国行きに乗り換える乗客のため、日本航空は親切にもアナウンスを流してくれる。普通は、乗り換えに時間のかかりそうな路線にしかこれを行わないのだが、その日だけはなぜか他の路線についてもアナウンスを流してくれていた。
「まもなく当機は福岡空港に着陸いたします。鹿児島行きにお乗り換えの●●様、○○様、△△様、…お降りの際は乗り換えのご案内をさせていただきますので…」
 思わず吹き出しそうになった。ご丁寧に名前付きだった。恐らくは酔狂な客がにわかに多く出たもので、乗り間違えのないよう気をきかせてやってくれたのだろうが、ありがた迷惑とはこのことだった。
 なんとなく聞き流していた他の乗客様達も、鹿児島から乗ってきているのに、なんで「鹿児島行き」に乗り換えてとんぼ返りをするのか、という奇妙さに気付いたようだった。「ん?」という感じでアナウンスに耳を傾けていた。そこで、自分の名前もばっちり読み上げられてしまった。これは、とにかく恥ずかしい。もう、なんと言ったらいいか、火が噴き出たように顔が真っ赤になるのを感じた。名を呼ばれたのは総計8人で、恥さらしが8人もいたことになるが、そのときは他人のことなどどうでも良かった。穴があったら入りたい心境で、一目散に逃げ出してしまいたい心境だった。飛行機から降りれば解放されると思ったが、当然、そこで終わるはずもなかった。閉鎖された空間である飛行機と空港の搭乗口に逃げ場所などあるはずもなかったからである。結果、「担当者」の前に他の犠牲者と一緒に並びながら、乗客様達の好奇な視線にさらされる羽目になった。背後の乗客のうち若い娘さんの「なんで往復してるの、あの人達」という純情無垢な声が痛烈に心を突き刺した。
 それは、まるでなにか悪いことをして立たされているような気分だった。贔屓目に見てもタチの悪い罰ゲームだった。悪夢の白昼夢か、夢幻の幻影だった。居心地の悪さに心が病んでいくようで、なんで上野動物園のパンダや平川動物園のコアラがああも薄命なのか、やっと理解することができた。それは、五分くらいの短い時間だったのだろうが、無限の時間にも感じられた。ばっちりさらしものにされ、そのうえ、空港内を引き回しの刑に処された。待合室で解放されるまで責め苦は続いた。

「きつかったすね…」
 ぬりかべより一回り年下の青年が皆の思いを集約してくれた。
「そうだね…」
 拷問に堪えた身で、そう返すのがやっとだった。次の鹿児島行きが搭乗を開始する短い時間のなか、8人でほんの少しばかり励まし合うように会話をした。冬山の山小屋で最後のココアを回し飲みしているような心境だった。さながらアルコール依存症の断酒会のような雰囲気がそこにあり、みんなで励まし合って社会復帰しましょうと誓い合った。
 改めて見ると8人には驚いたことに女性もいた。若い女性だった。結婚して1年の専業主婦だという。
「旦那がですね、家事をしてくれてありがとうって言ってくれたんです。お礼と言ってはなんだけど、旅券を用意したから一人で旅行にでも行ってきなさいって言ってくれて…」
 それで日帰り5往復とは、すごい亭主もいたものだと思った。良く言って、鬼か悪魔の所業で、血の通った人間のやることだとはとても思えなかった。
「結婚する前は飛行機を一日十回近く乗り継ぐとか、それを晒されて大恥をかかされることとか、考えだにしていませんでした」
 さもありなんと7人は素直にうなずいた。誰もが目の前の専業主婦が可哀想に思えて仕方なかった。かたや、この主婦の締めの言葉が振るっていた。天使の笑顔でこう言った。
「旦那にいいみやげ話ができましたよ」
 女性は本当に強いなぁと思った。

 鹿児島に着いた後、僕を除く7人は一日ずっと鹿児島-福岡間を往復するということで、そこで僕は別れを告げた。
「鹿児島-屋久島間は同じ機体をずっと使いますんで、確実に顔を覚えられます。頑張ってください」
 若者からそんなことを聞かされて、元々わずかしかなかったやる気も萎えそうになった。しかし、もうチケットを取ってしまっており逃げるわけにもいかなかった。旅の恥はかきすてと心を切り替える余裕もできていた。なんとか、気後れする自分を奮い立たせて屋久島行きの便に搭乗した。
 
 気の利いた日本航空のなかの人は、全路線、窓際の席を取ってくれていた。
 ボンバル機の窓から広がる屋久島の空と海は格別だった。モゾとニラとドツキ漫才を繰り返して醜く汚れきってしまった自分の心が洗われるようだった。振り返って回りを見渡すと、他の乗客の晴れがましいいでたちが見え、めいめい思い出に残る旅や余暇を純粋に満喫しようときているのだなと想像することができた。
 しかし一方、軽装の小汚い我が身を振り返って、何が悲しゅうて会員資格をとるために空港から空港へ、島を散策するでもなく淡々と九往復もせなならんのかと誰かを怨まずにはいられなくなってきた。だが、半ば食い物にした日本航空を怨むわけにもいかず、基本的に関係のないモゾやニラを恨むのも気が引けた。怨むとすれば自分しかいないのであろうが、やはり自分の身が一番可愛いものであるので、なんとかしてモゾやニラのせいにできないだろうかと考えたが、そんな卑怯なことは屋久島で心を浄化された自分には思いつかず、せいぜい出来ることは、楽しいことでも考えて気を散らすことだけだった。
 そんなこんなで搭乗を繰り返し、往復を重ねていった。ぐったりと疲れ果て、義務感だけが抜け殻の体を動かしていた。

 やがて、飛行機のなかのお姉さんから、まぁた来たのかという顔をされるようになった。お姉さんとはキャビンアテンダントのお姉様である。お姉さん、言葉は飽くまで慇懃丁寧で、
「またお乗りいただきましてありがとうございます」
 発音も明朗で、さすがはプロである。
 しかし、どこはかとなく脅迫にも似た何かを突きつけられている思いを感じ、違和感を覚えた。例えるなら、まるで、首根っこにカトラスでもあてがわれているような雰囲気である。
 こちとら仕事で頑張ってるんだ、冷やかしでくるんじゃねーとでも、どこからか反響して木霊が聞こえてくるようだった。
「本日はたくさんご利用いただきまして、ありがとうございます」
「お待ちしておりました。本日はたくさんのご利用、誠にありがとうございます」
 搭乗を重ねるたび言われるのだが、徐々に違和感は確信に変わっていった。疲労感もあいまって、まるで殺人予告を受けているような気分になっていった。
 まさに白刃を持って闇夜を追いかけ回される気分で、幕末の攘夷志士の心持ちが良く分かった。無条件に差し出される笑顔は殺意に似ていて、殺るか殺られるか二つに一つの殺伐とした雰囲気で身がすくむ思いだった。例え額面通りの言葉の応酬が交わされていようとも、言葉に心がこもっていなければ真の交流にはなりえないという国際文化交流の縮図がここにあった。
 一方、僕には謝るしか術はない。
 もう勘弁してください、僕に話しかけないでください、そっとしておいて下さい、とそんな表情を浮かべながら頭を下げてお姉さん方に接した。しかし、決して許してはもらえることはなかった。
「飴をお取り下さい。先程と同じ物ですが。よろしければもう一つ」
 デリケートな心臓に容赦なく殺意を突き立てられ続けた。
 もうこりごりだと思った。
 
かくして二十回の搭乗が終わる頃には、心身共に疲れ果ててしまい食事も喉を通らない有様だった。初日の宿泊を漫画喫茶で安く上げ、ほとんど睡眠を取らずに、ハロルド作石のBECKと島耕作全シリーズを読破したのもいけなかっただろう。帰りの列車では発熱し、元気がなくなってしまった。

 結論としては、二十回の集中搭乗というのは非常に身体に負担をかけるもので素人には絶対お勧めできない。もし皆さんがこれからやむなく、どうしても二十回に渡り集中的に航空機に搭乗しなければならなくなったとしたら、鋼の精神を持つよう心がけることだ。皆様の幸運を祈ります。

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