週番自由帳、三週目に突入しました。
テーマは自由、何でも書いていいよ!ということで…

もぞの職場の同僚は、ゲーマーな男が多い職場です。
その一人Aさんが一枚のゲームソフトを職場に持ってきたのは二年前の出来事。

「毎日、仕事がつらいだろ?俺はこれで随分と癒されたから、君に貸してやるよ」

Aさんとは「サカつく」仲間。
私はそんなに疲れた顔をしていたか?と思いつつありがたーく遊ばせて頂くことにしました。
「癒されるまでは返さなくていいから」
という言葉とともに渡されたソフトのタイトルは

「キングダムハーツ(スクエアエニックス)」
>Amazon.co.jpレビュー
ディズニーとスクウェアが協力して作りあげたRPG。ディズニーキャラクターと歴代の『FF』のキャラクターが登場して、世界に巻き起こった謎を解明していく。
ディスティニーアイランドで平和な毎日を過ごす主人公のソラ。しかし突如としてその島を黒い雲が覆った。ディズニーキャッスルでも王の疾走事件が起こり、王宮魔導師ドナルドと王宮騎士隊長グーフィが事件の解決に乗り出す。そこからソラとドナルド、そしてグーフィが出会い、冒険が始まるのである。ゲームではディズニーの世界を見事にRPGに取り入れ、ターザンのジャングルや、不思議の国のアリスのワンダーランド、人魚姫アリエルの海底神殿、さらにはプーさんやピノキオ、ピーターパンも登場。ダンボやバンビも召喚魔法で呼び出すことができる。
「白雪姫」、「シンデレラ」、「オーロラ(眠れる森の美女)」、「ベル(美女と野獣)」の4人のプリンセスの謎に、それを追いかけるスコールやクラウドといった『FF』でおなじみのキャラクターが登場。メルヘンの世界を丁寧な作りこみで再現した、老若男女が楽しめる作品である。宇多田ヒカルがテーマソングを担当したことも話題のひとつ。(樋口浩二)

きゃー、ガンパレでなくてごめんなさい。
と、とにかく私にとっては初めてのスクエア作品。
えぇFFシリーズもプレイしたことのない人間です。

初日。
まずは画面に酔って5分で終了。情けない。
一週間後。
ゲーム内のミニゲームに勝てず強制終了。情けなさ過ぎ。

「癒されるって言うか…なんかイライラさせられるんだけど」

Aさんに素直に申告したものの、彼は「癒されない人間はいないから!」と返却を許してくれず、もぞは根気よく操作法に慣れるしかありませんでした。
その後「アビリティ」という概念が分かるのに時間を要し、謎解きに時間を要し、と微妙に回り道。

それから三ヶ月後。
「いやー!Aさん、キングダムハーツ面白いよ!」
と一人前に語る女が出来上がっておりました。
「やっぱ、敵をざくざく斬っていくのは爽快感があって癒されるよね!いやぁ、投げ出さずに頑張って良かったです!」
「…え?」
「敵を斬るだけのために朝まで遊び倒す日もありますよ!」
「…えっと…君はディズニーキャラに癒されるわけではないの?」

「「・・・・・」」

この会話を境にAさんの私に対するイメージが変わったとか変わらないとか…
もぞは結局キングダムハーツで遊び倒し、ソフトを返したのはちょうど1年後のことだった。

「癒されるのに時間がかかっちゃって…はは」
「どうせ経験値ためたりとか、コンプリート目指したりとかして、癒しの行動とは違うことで時間をとったんだろ?」
「あは、ばれました?」

というわけで、キングダムハーツ、ストレス解消にもってこいでした。ストーリーも勧善懲悪ではなくてとても良かったです。
キングダムハーツ2、発売されたら、多分ご購入になるかと思いますよ。
ふふふ。

あ、とりとめない文章だなぁ。
ていうかレビューですね、これは…
納涼といえば肝試しですね。
おばけの季節になりました。
日本のおばけにどのような種類がいるか知っていますか?

幽霊(生霊)・・・言わずと知れた人の霊。魂のみの存在。お岩さん、お菊さんなど。
変化・・・・・・・・・・・動物や物が長い年月を生きてきたり、長く人間に使われてきた結果、超常的な力や高い知能を得、変化したもの。人面鬼人化することが多い。九尾の狐、ねこまた、一反木綿など。
魑魅・魍魎・・・・・魑魅は山林に棲み、魍魎は水の化け物とされる。石や木など自然物の精気から生じる。河童、人魚、木霊など。

そして、「妖怪」というのはこれらの総称。「おばけ」を難しく言ったものです。
もっともこれはいろいろ議論(種類分け自体も)があるところで、境界線上にいるおばけもいたりします。
狂骨や二口女など人間や霊がそのまま妖怪に転化したりとか、酒呑童子など人間として生まれてきたのにその生まれもっての力のために鬼化したもの、座敷わらしや天狗などどちらかというと神に近いものなどがそうですね。

どちらにしても「おばけ」というものは、人間の闇の部分、後暗いところ、当時の人々には怪異にうつった自然現象への恐れと相反する支配への欲望から生まれたといえます。

西洋のおばけと呼ばれるものが概ね人型や半獣型、獣型をしているのに対して、日本のお化けは、たぬきやきつねが化けるだけでなく、提灯や木綿などが人を襲ったり、石が人を呪い殺したとりもする。
魂(精神)は人や動物・自然物だけでなく、人工物にも宿ると考えたのが日本人の面白いとこだなぁと思ったりします。
身の回りにある全てのものに対して、それはただの空間も含みますが、自分に向けられる目というものをを感じていたのかと、日本人の精神の後ろ向きさ加減がよく分ります(笑)
もちろんこれはアジア圏に広くある、御霊信仰・精霊信仰の影響でしょう。

自然界のあらゆるところに神がいる。精霊がいる。

日本人は神だけでなく精霊や先祖の目を感じ、そこを精神の拠り所としていた。
神は西洋と違い絶対的な規律を示すものではなかった。
日常的な事柄に関しては代々からの慣習で対応してきた曖昧さが、日本人の物事に対する姿勢を良い意味でも悪い意味でも作ったのだろうと思います。

そして、雰囲気を読む。口にしなくても分るということ。
これを日本人はとても大切にしますが、目には見えないものを感じ取ろうとする心が繊細な感性を作り、闇の中に現実には在らざるものを見る力、想像力、創造力というものを人の中に育てたのでしょう。
というわけで、今回はにらについてのお話です。
ぽん太に登場したてのにらのHNは「ニラギライ」でした。
それがBBSにおいて確か3分程でただの「にら」になったのは世界の選択といいますか。ただ単につけた本人が打つのが面倒だったというか。
ニラギライ…こう南方系の神秘的なHNのように一見して感じたりとかは…しませんか?え、しません?
当初そのような野望を込めてつけられた名前。

由来は、
ニラギライ、にらぎらい、
にら、ぎらい
にら嫌い!


そうにらが嫌いなんです、わたくし。
分かりやすいですね。とても。

あの匂い、あの色、そして何よりあの歯触り!!
葉っぱを二重にして歯でかんだ瞬間のざりっと耳障りなあの感触が!なにより大嫌いなのです!!!

同じくネギもだめです。鍋にまるごと入っているネギなど、ねぎまなど言語も同断です!

しかし、不思議なもので、チヂミ、餃子は大丈夫なのです。
それが韮チヂミとか韮餃子とか銘打ってさえいなければぜんぜんへーき。
偏ってると言われますが、自分でもこれは不思議です。
なんなんですかね。
嫌いなものって実はあいまいな線引きだったりするのかもしれません。
ええ、韮はやっぱり駄目ですけど。

で、結局何が言いたかったかというと、にら嫌いの話ではなくて、嫌いなものについては人はいくらでも語れますと言う話。
 ぬりかべは、小学生から成長して、無個性な大人になった。
 そこで、差別についていろいろと考えるようになった。
 しては良くない差別と、しても良い差別の決定的な違いはなんだろう。

 たとえばタバコがある。
 今では、タバコを吸う者は差別しても良いことになっている。飛行機でも列車でもパブリックな場所では原則として「禁煙」である。アメリカなどでは、妊婦の前で吸えば殺人未遂が適用される。
 しかし、昔は違った。
 ちょっと吸うのはやめて下さいよ、と言おうものなら、言った方が非難されていた。うるさい奴だとレッテルを貼られ、差別されるのは当然だった。吸うことが絶対的に正しかった。

 今とは正反対である。
 なぜ、しても良い差別が交代してしまったのか。いつの間にやら、差別の「転換」が行われている。

 タバコは昔、国の基幹税だった。タバコ税がなければ国が成り立たなかった時代があった。タバコの害もそれほど知られていなかったし、国民としては、タバコの害よりも与えてくれるささやかな享楽の方が大事だった。
 しかし、高度経済成長により、タバコの税など取るに足らぬものになった。そればかりか、タバコの税より肺ガンで支払う健康保険税の方が高くなった。タバコの害は繰り返し国民に周知され、タバコと言えば不健康の代名詞になった。

 だから、つまり、タバコについて差別が交代してしまったのは、身も蓋もないことだが言ってしまえば、社会の要請だったのだろうと思う。
 例えば、女性差別などもその典型だ。

 ぬりかべが子供のころまで「女性は家を守って欲しい」と大人たちは口を揃えて言っていた。そういう差別が横行し、威力を備えていたということだ。そのため、差別を恐れて、それに従った女性も多かっただろう。
 しかし、いまや、それを言葉にする者は少なくなった。
 差別が転換した。
 いまや、女性は家に、と言っただけで差別される時代が来たと思う。

 してもよい差別とは、きっと社会自体がそれを選ぶのだろう。これから先、必要だと思われることについて、関連する差別は正当化される。ともすれば法律や規則や道徳となるのだと思う。

 注意すべきことは、今までが間違っていたということではないということだ。
 社会が変わったからなのだ。産業が変換したからなのだ。
 タバコがなくても維持できる社会になったということだ。女性が家を守らなければ成立しない社会ではなくなったからだ。
 それで、今まで正しかった差別が間違ったことになり、間違っていた差別が正しくなった。それだけなのだ。

 そういうわけで、僕たち人類は、薄皮を何層も何層も積み重ねるごとく差別を重ねて生きてきた。差別は決してなくなることはない。ただ、その上に差別を重ねることで無害化させることができるだけなのだ。僕たちは今でも何かの差別に荷担している。差別することでしか僕たちの世界は維持することはできない。一方で、僕たちが絶対だと信じている信念も、10年後、100年後には不当な差別だったと言われる日が必ず来る。

 無個性なぬりかべは今日も、にらともぞに差別をされ、いじめられている。ぬりかべが不当な差別だと言うと、ぬりかべにする差別はしても良い差別なんだよと強弁してくる。

 しかし、ぬりかべの方が正しかったと言われる日が、多分1000年後くらいには来るのではないだろうか?
 差別をなくそう。
 この言葉がなぜか小学生のころから苦手なぬりかべだった。差別というものがよく分からなかった。誰が不幸になるのか実感がわかなかった。

 ただ、クラスに顔に痣のある女の子がいて、そのことを何かにつけクラスの悪ガキにからかわれていたので、それを見てあれが差別なのかなぁと思っていたぐらいだった。

 ある日のこと。道徳教育の授業中だった。
 若い男の先生が担任で、「なにか身近に差別だと思えることがあれば言ってみなさい」というので、ぬりかべは、「あれは差別じゃないのかなぁ」と言ってしまった。女の子を助けたいという気も、悪ガキをやっつけてやろうという気もサラサラなかった。ただ好奇心でしゃべってみただけである。

「うん!それは差別だ」
 ギターを昼休みに弾いて聞かせるのが大好きな熱血先生である。我が意を得たりとばかり力強くうなずいた。ぬりかべは嫌な予感がした。
「●くん、立ちなさい」
 悪ガキだけが立たされた。早速とばかり、クラスメイトの前で事情聴取が開始された。道徳教育の時間は一転して、悪ガキの反省と告白の場と化した。お通夜のような状態になってしまった。
「ごめんなさい。悪いと思っているんです…」
 日頃からの横柄な態度はすっかりなりを潜め、明らかに青冷めていた。泣き出しそうでもあった。一方、女の子はそこまで責めなくてもとオロオロとしていた。優しい本当にいい子であった。ぬりかべは、事の成り行きをワクワクしながら見守っていた。

 そして、期待どおり、熱血先生は実に容赦がなかった。
「よし、右から一人ずつ感想を言ってみろ」
 クラスメイト全員からコメントをとったのである。コメントは、回数を重ねるにつけ表現がエスカレートしていった。終わりの方ではぬりかべでさえ聞くに堪えないものとなっていた。
「本当に信じられません。●くんを見損ないました。そばにいてもらいたくありません。隣のクラスに行って、もう帰ってこなくていいです…」

 ぬりかべは、悪ガキの運命に同情しながら、その時悟ったのである。
それは、人を差別してはいけないという単純なことではない。
 なぜなら、先生が悪ガキに行ったのは、明らかな差別だったと思うからである。差別してはいけない、という先生が悪ガキを差別した。
 だから、ぬりかべが導き出した結論はこうだった。

 世の中には、しては良くない差別と、しても良い差別がある。

 先生がしたのは、きっとしても良い差別の方だったのだろう。人を不当に差別する悪ガキのような人間は、差別されてしかるべきだったのだ。
 人を傷つけたりすれば刑務所に収監され自由が奪われる。ともすれば死刑になって殺されてしまう。これは差別ではないのか。自由と生命を奪われるわけだから差別に決まっているとぬりかべは思う。だが、これはしても良い差別なのだ。少なくとも日本の国会がそう決めているからそうなのだ。
 社会の秩序を保つために行わなければならない差別は、しても良い差別になる。小学生のぬりかべには驚愕するような真理だった。(続く)
個性がある方がいいと教えられて育ってきた。
でもそれは大嘘だと思う。個性なんかない方がいいに決まっている。

個性は辛い。
学校にいなかっただろうか。ひとり浮いていて迷惑な奴が。
職場にいないだろうか。迷惑がられて嫌われている人が。
きっとその人たちは個性的な人達だろう。そのなかに、あなたは入ってないだろうか。あなたは個性的ではないだろうか。人から嫌われてないだろうか。

個性があったがために、人と違ったことをしていないだろうか。
個性があったがために、言わなくてもいいことを言って不興を買ったことはないだろうか。個性があれば素晴らしいなどとどうして言えるのだろう。個性があると、人と同じポイントで笑えないのだ。人と同じラインに立つことはできないのだ。こんな自分はいらない、そう叫びたくなったことはないだろうか。
個性は悲しい。個性は人を孤独にする。
あなたは孤独が辛くないだろうか。

大抵、個性は人を不快にさせる。不安にもさせてしまう。
そうとわかっていながら、言わずにはおれない。行動せずにはおれない。
執拗にこだわってしまう。人を傷付けてしまう。
それが個性。

人と違ったことをして喜ぶ自分。ひとり悦に入ってしまう自分。
とても醜い。
しかし、どうしようもない。
麻薬のような中毒症状。それが個性にはある。
個性に乗っ取られ発言するとき、行動するとき、至高の幸福感を味わうことができるはずだ。一度味わえば、また味わいたくて、同じ行動をするはずだ。やめることはできない。その快楽だけが孤独を癒してくれる。例え、人が傷つくとわかっても。自分が損するとわかっていても。
一時の快楽のために、個性に身を任せ、他者と自分を傷付けるのだ。

個性は人を掴んで放すことはない。多分、一生。

無個性な僕は、今日も個性的なにらともぞにいぢめられている。
文章をつくっていて困ることがよくある。
簡単な描写でとどめておくか、それとも精緻な描写を駆使すべきか、いつも困る。

文章というものは、とどのつまり、自分の頭のなかのイメージを完璧に読み手に伝達すれば勝ちなのだろうと思う。
これは面白い! と思って書くわけだから、相当かけはなれた感性でない限り、文章を書ききることが出来れば、それは面白いはずだ。

しかし、頭の中にうごめいている全てを文章に書ききるのはとても難しい。それが自由自在に出来ればそれだけで作家になれるのだろうと思う。我々平民は、適当な表現をひとつ探すだけで一苦労する。ともすれば、書いているうちに自分自身でなんだこりゃと思う文章になっている。

書き手にとって、描写というのものが重要になってくるのはそういうこと。
適切な表現であれば、書き手の思い描く世界を読み手に充分に味わってもらえるだろう。しかし、簡単な描写でありすぎると、書き手の思いは充分に伝わらない。精緻な表現にすぎると、今度は読み手に読み飛ばされてしまう。
どうすれば思いが通じるか、そういうことで悩んでしまうわけだ。

でも最近思った。
これらは大きな勘違いだった。

化学合成のように表現は成立していない。
こういうふうに描写をしたから、と言って読み手が全員、書き手の考えたような世界を感じてくれるとは限らない。全てお膳立てをしたから、さあ感じ取れと言ってもそううまくいくとは限らない。どのように言葉を駆使しても受け取る読み手の方が多様なのだ。

それで限界を感じても始まらない。
逆手にとるべきだ。すなわち、表現とは「鍵」だ。
読み手の心になかに眠る世界を表現によって、呼び覚ますと考えるべきだろう。それで感動してもらうことこそ文章の神髄と捉えるべきだ。

至福を知る者には、それを思い出してもらい、
絶望を知る者には、それを思い出してもらえばいい。

しかし、言うは易く行うは難し。
それが自在にできる才能があれば大作家になれる。

才能のない僕は今日ももぞとにらにいぢめられている。
一週間ごとに係を決めて、自由に文章を書いていこうという、管理人自己満足企画でございます。せっかく複数人でサイト運営してますからね。どうせならキャラの一つもたたせておこうかという、まぁ、そんなところでございます。

もぞはサイトに出現する確率が高いですが、残りのメンバーは他の色んなサイト様との関わりもあって、ぽんたに顔を出すことも少ないですからね。ここを窓口というか入り口にしたいと思っています。

ちなみに、自己満足企画ですので、基本的に苦情は一切受け付けません。

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