「ガンダムSEED DESTINY」が始まりましたね。
ガンダムシリーズということで、前作SEEDを見ていた私ですが、続編放送のウワサを聞いた時、実はそれほど興味はなく、見るつもりもなかったのです。

が、ちょうど初回放送時が暇だったので、とっても軽すぎる気持ちで見て、もうもうもうっ! アスランとかまた出てくるよという程度の予備知識しかなかったので、新キャラのお声に聴覚フル回転!(笑)
好きな声優さん揃いでしたけど、中でも、池田さんと小山さんにドカーンっと!!! シャア大佐にキシリアですとー!? その状況に、嬉しいんですけど、ちょっと複雑な感じ。でもでもやっぱりガンパレード状態という、大変忙しい状態でした(笑)

実は私にとって、俗に言う「ファーストガンダム」との馴れ初めはいつのことだか記憶に定かではないのです。けれども、気付いた時には既に「赤い彗星・シャア」はカッコイイ人、としっかりインプットされてたんですよね。
仮面着用で素顔なんてロクに見せず、それどころか現実的にはあれってかなりヘンテコマスクですのに、それでも「カッコイイ人」。後年ちゃんと見返して、ロリでマザコン?な疑惑を知っても尚、想いは冷めず、ですし。シャアというのは、私にとって永遠の恋人のような御方らしいです(笑)

それはさておき。
思い返せば、男兄弟がいて、近所で仲が良いのも女の子より男の子。となると、男の子向けの特撮とかSF系アニメを見る機会も多くて当然なわけでして。子供の頃の私は、女の子向け番組よりも男の子向け番組をよく見ていたような気がします。
ただ男の子と違って、メカそのものにそれほど興味を持てたわけではなく、ガンダムシリーズも何作か見てますけど、実は機体ってさっぱり区別が全然ついてなかったり…。。。
一応、例えば、作中、ガンダムとザクみたいな、その程度の区別はつきますが、各シリーズのガンプラが並んでいても、確実に分かるのはお髭の∀ガンダムだけに違いなく……。

SEEDって一度に何体ものガンダムが出てくるので、「この白っぽいのはキラで、赤いのがアスランでー」という感じで、主役2人のは辛うじて識別出来てましたが、それ以外は誰がどのガンダムに乗っているのか全然区別がつかず、キャラの顔または声での判別ですよ…;;;
そういう意味でも、シャアは私にとって嬉しすぎるキャラだったのかも。機体のカラーリングを一目見ただけで分かりますし。クワトロの時もひとりだけ目立ちすぎな金色でしたしね(笑)

そんな「赤=シャア」みたいな不動のイメージがあれば、何度機体が変わっても迷う必要もなくて済むんですけどね、ほんとに。
かつてサホは、あのエヴァンゲリオン、リアルタイム放送時は機体の区別がつかないという理由もあって、開始から2、3話で挫折したのです…。まだ初号機と零号機のたった2機しか出てこなかったのに……。数年後、まとめて見て、ようやく区別出来るようになりましたが。

エヴァ2機でそんな体たらくということは、きっと皆様もお察しのことと思います。
懺悔のつもりで告白しますが、ガンパレの士魂号、私にとって見た目だけで分かるのって実は複座だけ…;;;
あ、単座は重装型ならクリア出来ますね。壬生屋への愛でカバーしましたし(笑)
けど、それ以外の機体の違いについては…士翼号も含めて……きゃー、ごめんなさいぃぃぃ
ついでに言うと、ウォードレスに至っては、何一つ判別出来ず;;;
戦闘デモをOFFにしてることがほとんどなので、覚える機会も更に失うわけでして。と、言い訳。潔くないですね;

要するに、顔と名前が一致しないというのと同じ状態なんですよね。
興味がないから覚えられない、もっと言えば覚える気がないというものなのでしょう。
それでもSF作品が好きなのは、やっぱり現実では有り得ない舞台設定の中で繰り広げられる物語に惹かれるから。そこに、深いキャラ造詣が垣間見えると、メカ音痴(というのでしょうか?)を押してでも見ようという気にさせられるのです。キャラ萌えが高じたら、機体を覚える努力も惜しみませんし(笑)

私がガンパレにはまったのも、この深すぎるストーリー性とキャラ萌えがあってのこと。世界の謎に関わるようなことには興味津々ですけど、メカそのもののデザインとか性能については、正直、二の次どころか三、四の次くらいになりそうですが、それでも、いつか、そういう設定を活かした硬派な戦闘SSが書けたらなぁ…と、到底不可能だと思われる野望が密かに…。
ゲーム中、あれだけ戦闘ド下手で、どんなSSが書けるんだ?と萌え神様の呆れたお声が聞こえてきますが。。。
とりあえずは、あまあま世界獲得のが先ですよねぇ。何故か私にとってそれも非常に難しいらしいので(号泣)

そんなこんなで明日は土曜日「SEED DESTINY」放送日ですけど、願わくばこの続編、もうちょっとガンダムの数を減らしてほしいなぁ、なんて思ったり。髭とは言いませんけど、せめて、もっと明らかな違いをつけてもらえると、とっても有難いんですけどねー…。
機体が区別出来ずとも、キャラの顔や声で判別するのが私の常套手段ですのに、ガンダムに乗ってると、ぱっと見だけではシンとキラとの区別がつかなくて……;;;
ああ、せめて、もっとしゃべってくれれば、声で分かるのに……っ
もっと回が進めばシンも主人公らしくなる…のかなぁ…。うーん???
どうにも主役の座を持っていかれがちな気が…。それでなくとも私はアスラン派ですのに…
食欲の秋です。私もその恩恵に与り、体重計に乗るたびに悲しくなります(号泣)
私の場合、特別ご飯を食べる量が増えるということはないのですが、この季節、特に新作とか期間限定のチョコが多くて!!! 秋冬の間って、他の季節より甘い物が一段と恋しいんですよねー。

でも、今日は好物の話には非ず。その反対の話です。

たまに、食わず嫌いな某番組(伏せてる意味がないような・笑)を見るのですが、そのたびに、自分ならどんなメニューを選ぶかな、と思ってしまいます。あれって何とか我慢出来るものでないと、口の中にすら入れられないと思うんですよね。死んでもムリ!というほど嫌いな物は、やっぱりダメでしょうし。

幼い頃の私は信じられないくらい偏食だったのですが(何せ今は大好きなケーキなんかも苦手だったくらい)、幸い、今では、好物とは言えなくても、食べられる程度に嫌いというレベルにまで改善されたものがほとんど。
つい最近も、らっきょうは身体のためと思えば、ウニ、イクラは、そこそこ良質のものなら何とか食べられるようになりました。むしろ、こっちのは苦手なままの方が懐にも優しくて良さそうですよね。お寿司ネタだと、トロとかも苦手という安上がりなサホ(笑)

今すぐ思いつくものですと、いちじく、南国系果物、メンマ、塩辛なんかが、未だに克服出来ずにいるのですが、どれも、特に日常的には口にしなくていいものなので、そう困ることもなく済んでいます。

そんな普段、口にしなくて済む嫌いな食べ物の中に、京都土産の定番、八ツ橋が含まれていたりします。生八ツ橋もですけど。(生)八ツ橋の何がダメって、あの匂いなんですよね。誰かが身近で開封しただけでも、心境的には脱兎の如く逃げたくなるくらい。ニッキ飴とかニッキ水とかもダメで。

高校卒業前、友達と卒業旅行の代わりに、日帰り地元観光地めぐりということで嵐山方面に出掛けたのですが、その時、土産物屋にて「チョコ生八ツ橋」なるものの試食がありまして。
私は決して食べまいと心に誓っておりましたが、店のおばちゃんに強引に食べさせられ、見事撃沈…恐るべし、チョコ風味ニッキ!!!
帰りのバスの中で、車酔いも加わったのか、そりゃあもう悲惨な思いを。。。
けど不思議なことに、それがシナモンだと割と平気なんですよね。
アップルパイの中に入ってるのとか、多すぎなければ別に大丈夫。ニッキとシナモンって和か洋の違いくらいしかないんでしょうけど。

同じように、生姜も好みが両極端に分かれるものです。
おかずとしての生姜は大丈夫ですけど(薬味とかで生のままのは、ちょっぴり苦手ですが)お菓子の中に入ると、もうノーサンキュー;;;
子供の頃、「冷やし飴」という響きに騙され、嬉々として口に含んで大変痛い目に遭ったことがありましたっけ…(遠い目)
生姜の場合は「ジンジャー」と名を変え使用された洋菓子もアウト。私にとって、生姜はご飯時に食べるもので、おやつではないらしいです。

けど、私の場合、そういう苦手なものって、匂いがダメというのが多く、アレルギーが出るとかいうわけではないので、ものすごーく我慢すれば飲み込むことくらいは出来るでしょうか。そう思うと、一番の鬼門は辛い物かもしれません。
あ、でも、お土産でもらったドリアンキャンディー。あれは、1秒すらも口の中に入れてられませんでしたねー……
生で食べる方が美味しいとのことですが、飴であの匂い…うーん、試す勇気は………

まぁ、でも、調理方法なんかを少し変えることで、苦手意識を減らせるのは有難いことです。
頭ごなしに「これはダメっっっ」と全力で拒絶するのではなく、「こうなら大丈夫だよ」と譲歩出来たり、妥協出来たり。
そういう柔軟さを持ち、その上で、より受け入れやすくするための創意工夫をどう凝らせるかというところに、自分とそれとの距離が変わってくるのでしょうね。
食べ物の好き嫌いだけでなく、何事においても、そういう心構えを忘れずにいたいものです。…なんて、殊勝なことを言ってみたり。分かっていても、なかなか難しいんですよね;;;なので、自戒を込めてここに記してみました(苦笑)

余談ですけど、秋限定の栗餡・芋餡入りの生八ツ橋はニッキ味がせず、好物といえるくらい美味でございましたvvv
ニッキ嫌いの方にもこれはオススメの一品。ぜひ京都土産にいかがですか?
…って、なんだか「お●べ」の回しモンのようなオチですね(笑)
日本人の女の子を落とすには血液型別性格判断の話が有効だ……これは主に欧米系の男性にとって定説となっている、らしい。
政治にも国際情勢にも興味のない「カラッポ」な日本少女達が、血液型の話になると目の色を変えて会話に参加する、どころか自分から喋ってくれる魔法の話題、というわけだ。

外国に住む我が友人はこの定説を日本の恥だと思っていて「何で根拠のないこと言うのかしら」などと御立腹であった。
中学・高校と学校に内緒で占い系の商売をやっていた傑物の彼女が、である。
きっと屈辱的な扱いをされたのだろう。
そもそも人間を4つの型に当てはめる考えというのは究極のレッテルなのかもしれない。

それでも私は血液型の話=頭がカラッポの会話だとは思わない。よく知らない他人と会話をするとき、血液型の話はネタの一つとして知っておいて損のない話法だからである。
別に詳しく語る必要はないのだ。
こちらが知らなくても相手が知っている場合も多い。
血液型の話をきっかけに趣味の話に持っていけたりもする。
なるほど、4分類はとても危険な考えかもしれないが、そもそも人は「何か」をカテゴリー分けせずにはいられないのが真理なのではないか。
血液型と性格に関連性が無くても結構な話なのである。
もはや日本では血液型の話はカルチャーのひとつ、だと言えるだろうし。

血液型と性格に本当に関連性がないのだろうか…そう考えた動物行動学を専攻する女性がいた。
その名も竹内久美子さん。有名な筋にはとっても有名な人である。
たしか現在「週間文春」にて連載ページを持っているはずである。
平成六年に初出され、平成十一年に新潮社にて文庫化された『小さな悪魔と背中の窪み』では、血液型と性格について面白い説を提示している。
実は血液型と病気の間には深い関係がある。
ある血液型の人間は結核に罹っても梅毒に罹っても重症化しないことが知られている。
この説を踏み台に、感染症系の病気の罹りやすさ難さが人間のライフスタイルに多大な影響を及ぼす限り、意識的であれ無意識的であれ、血液型は性格というものの方向を決めてしまうのではないか、という説を展開する。

まぁ乱暴な説だとは思いますが。
でもこう考えると血液型の話も少しは楽しくなってきませんか?

色んな方向から物事を検討していくと、知的興奮が得られるのではないかという話です。
もう何度目になりますか、ぽんた思いつきによるサイト改装作業が先程終了致しました。
今回の発起人はにら。
車を運転しながらずっと改装のことを考えていたそうで(およそ2時間?)彼女は我が家に着いてからずっとパソコンの前に居座りサイトデザインを考えてくれました。

今回の改装が前回までと違うのは、これまで別館だった2つのサイトを統合させた点です。
BLacK NoN-SuGER というネオロマ(コーエーの乙女系ゲームの総称)サイト
ヒマチ という銀魂サイト
ヒマチはともかく、BLacK NoN-SuGERはゆにおんぽんたより前に出来たにらのサイトで、馴染みにして下さった管理人様もいらっしゃる素敵サイトだったと思います。
いろいろな騒動に巻き込まれつつ、頑張ってきたサイトです。
ネチケやサイトマナーについても随分考えさせられ鍛えられた場所でした。
彼女のセンスを形作ったネオロマ系ファンサイト様、これからもよろしければどうぞ仲良くしてください。

今回の改装作業で色々ファイル名を変更しています。
それぞれお気に入りのページをブクマされている皆様で表示されない…という方、中身はほとんど変えてませんので、再取得をどうぞ。
業務連絡気味な掲示板は撤去しましたが、新たに連絡絵板を導入しました(使い回しですけどね)。
テキストのみの通常カキコも可能ですので、どうぞお気軽にお使い下さいませ。

これからもどうぞ御愛顧くださいませ♪
ちょうど成人した頃に「人は一人では生きていけないよ、寂しい動物なんだから」と付き合っていた人に言われた。
その言葉を聞いたとき、あぁ、この男も随分知った口をきくものだ、と思ったものだ。
私は人が人を支えて生きている、という言葉が嫌いであった。
詭弁だと思ったりもした。
他人に手を差し伸べないことはなかったが、感情が動かない相手を好んで助けたことはなかった。
助けて、と頭を下げる人間を見捨てたりはしなかったが、一度助けた人間だからといって二度助けるとは限らなかった。
私は他人を自分のテリトリーに入らせなかったし、受け入れられる土壌を作る努力もしなかった。
それでも社会は秩序を失うことは無かったし、私は気楽に生きていけたのだ。

他人から裏切られる行為なんて、どうってことはない、と思っていた。
実際、何があっても平静でいられた。
痛みも特に感じなかった。
人に打たれれば当然痛かったけれど、その後の言葉の暴力が痛かったことはほとんどなかった。
相手を恨むこともあまりなく、どうでも良いと思っていた。
当事者意識が希薄なことが不健全だと思ったこともなかったのだ。

自分と社会を遮断させる生き方は気楽なものだった。
他人に興味を持たなければ裏切られることも、自分が悪者になることもない。
陰口を叩かれても痛みを感じなかったし、逆に悪口を言うことさえなかった。
他人に干渉しない性格は「高潔」だと思われがちで、いつも綺麗な存在でいられる。
嘘をつく必要もなかったし、いつも本音を口に出来た。
本音を言うことで誰かが傷付いたとしても、それが真実だと社会の秩序が認識してくれるから私が痛い思いをすることはなかった。
泣くことも喚くこともなかったから、精神が安定しているという評価を得ることさえ出来た。
その生き方は今思っても美味しいものだ。
だけれど、それでは成長しないのだ。

今でもそういうところが私の中には存在する。
私の基本性向として他人に関心が向かない、というところがある。
話すことが思い浮かばないときは沈黙することを選択する。
沈黙は苦痛ではないので自分からは話しかけない。
興味があってもなくても話を膨らませたりしない。
知らない話をされても質問事項が思いつかない。
……私は自分の心を育ててこなかったのだ。

私は彼と付き合ってから泣き方を憶えた。
一番大切な存在である彼を傷付けては泣いた。
彼が不安がっていることを知って、信じてもらえないと泣いた。
自分の意見が通らなくて、受け入れてもらえないと泣いた。
そして、彼の言っていることが正しいと思い知らされ、悔しくて泣いた。
たくさん心は揺さぶられ、揺さぶられることに恐怖した。
でも心揺れる出来事は悪いことばかりではない。
嬉しくても楽しくても心は揺れるのだと知ると、感情の機微、というものに興味が出てきた。
いつのまにか笑えるようになっていた。
こちらに感情があるのだと知られるようになってからは、私に議論をふっかけてくる人も増えてきた。
色んな価値観があって刺激を受けた。
価値観や常識には流行があるけれど、情報を上手く取捨選択して普遍的な考え方を読み取れる能力が必要だと知った。
たくさん失敗をするようにはなったけれど、助けてくれる人も増えてきた。

他人と関わる生き方を始めて、私は弱くなったと思う。
その所為なのかもしれないが、少しは他人に優しくなった。
人は寂しい動物だとは今もって思えないが、一人で生きていてはもったいないと思っている。
他人に優しくできる人は、自分自身を愛せる人だ。
そして逆もまた真なり、だと良い。
そういう信念を持って今日も些細なことで一喜一憂出来ればいいな。
昔見たテレビで、箱の中の猫という話があった。
例によって内容などは忘れているのだが、よほど印象的だったのか、「箱の中の猫」の断片はそれから何十年かたった今も残っていて、時折頭の中の引き出しから取り出しては考える。

ある密閉された箱の中に猫と二種類の餌を入れる。
一つの皿は毒入りの餌、もう一つはただの餌。
空気は供給されている。したがって猫の死の要因は毒入りの餌だけという状況だ。
箱は空気の他は密閉されているから、中の様子は私達には見えない。

猫はどうなったか。

箱の中は見えない。

時間の経過とともに箱の中の猫の生死の可能性は無限に分かれる。

一秒後には猫は毒を口にして死んでいるかもしれない。だが一秒後に口にした餌が毒入りでなければ猫は生きている。一秒後に生きていた猫は一分後には毒を食べているかもしれない。
時点時点で岐路が分れる。
その繰り返し。
ここにおいて、箱内部にはいくつもの平行世界がつくられることになる。

だが、勘違いしてはいけないのは、それは私達の脳の仕事だということだ。

実際は、「箱の中の猫」は、どの時点においても生きている(死んでいる)。そこに時間ごとの岐路は設定されていない。
箱を私達が開ける前から結果は決まっている。
私達が認識する前から、猫の生死は決定されているのである。

時間ごとの岐路を設定し、箱内部にあたかも平行世界があるかのように錯覚させるものとは何か。

それは、私達の持つ「想像力」というものである。

箱の中の猫を私達は想像の目で生かし、殺す。
猫は箱の中にいる限り、実際は例え毒の餌を食べて死に、腐り、形を無くしても、私達の頭の中では変わらず存在する。

しかし、ここで間違ってはいけないのは、繰り返しになるが、私達は私達の確認によって猫の生死を決定するのではないということだ。
箱の中で猫を生かし、殺す想像の力は全能の目ではない。
現実世界、経験とのすり合せによらなければ、ただの戯言、迷信となるのである。
 先週末に、ジェニファー・ロペス主演の「メイド・イン・マンハッタン」を見た。
 ホテルのメイドさんが何かの間違いで大金持ちと恋をして結ばれるという、よくあるシンデレラ物語だったのだが、嫌みも不自然さもなくて、ロペスが女優として魅力があまり無いこと以外は、悪くない映画だった。

それで気を良くして今週は、これらのご先祖様とでも言うか、名作であるところの「プリティウーマン(1990年)」を見ようという気になって、実際見たたわけなのだけれども、
 ――いや、本当に良かった。
 名作はどんなに画質が悪かろうと、カメラワークが古かろうと、いいものはいいのだと再確認させられた次第。見終わった後、そのままもう一回見てもいいとさえ思えた。

 とにかく無駄な台詞回しが一切ない。
 リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの恋人同士の掛け合いが出来がいいのは当たり前として、脇役であるホテルマンのからみも含めて、鼻につく台詞が一切なかった。実に自然で、あまりに自然すぎて、はじめそのことに気付くことが出来なかった。
 文章ではどうしようもない、映像だけが可能にする役者の演技による感情表現は、注意してみると唸らされること請け合いだ。

 嫌みがないと言えば、恋人二人の関係がある。
 大金持ちの社長と売春婦がそれぞれ反省して結ばれるというあらすじなのであるが、驚くことにお互い説教し合うことがほとんどない。
 恋愛物では、ああしろこうしろと恋人同士言い合うのが常道である。
「メイド・イン・マンハッタン」でも、メイドが金持ちに演説の内容をアドバイスなどしていた。しかし、「プリティウーマン」では全く違う。
 お互いに愚痴を言う。ただ、それを聞いてあげる。
 癒し合うだけなのである。

 社長のギアが、乗っ取り先の老社長に憎んでいた父親の面影を見て、乗っ取りを躊躇していたとき、
「乗っ取りはやめなさいよ」とか、
「老社長がお父さんに見えるんでしょ」とかそのものズバリなことを言って、ヒロインは行動を制限しようとするものだ。
 しかし、売春婦のロバーツはそんなことは言わない。
「あなたは老社長のことが好きなのね」とただ一言、言うだけだ。
 その一言で、乗っ取りを辞めた方がいいんじゃない、お父さんのことを許してあげたら、あなたはお父さんのことが実は好きだったんじゃないのと三重の意味のことをひとくくりにして嫌みなく上品に表現してしまう。
 ――ああ、格が違う。
と思ってしまう。

 そして、乗っ取りをさっぱりと辞めることに決めた社長は、部下に後を託した後、社長室から1階に降り、そのまま外に出て、靴を脱いで芝生を楽しそうに踏み始める。その間、何も説明は入らない。
 この情景で、社長のどんな心情を表現したいのかは明らかだから、説明などいらないということか。
 ――すごい、と思う。

 語り始めると止まらない、名作「プリティウーマン」であるけれど、まだ見たことのない人や、もうすっかり忘れてしまった人は、もう一度見るといいかもしれない。
 始めの20分は音楽も映像も退屈だけど、すぐに14年前の作品と思えなくなることを保証します♪
 映画を週末に見るのだけれど、アメリカの映画は、能力が認められて出世して幸せになる、という成功話がやけに多い。お国柄なのだろうが、離婚した両親が復縁するような話では、駄目夫が心機一転して大成功を遂げなければ、妻は夫を見直してもくれない。
 成功しなければ幸せになることは許されないのだ。
 それはそれで、努力するべきときに出来ない人間は、現代の僕らの社会のなかでは公然と差別してもよいことになっているので、納得しやすい話ではある。

 しかし、――
 この「能力」が曲者だ。
 努力して得られるモノを技能とでも呼ぶなら、どんなに努力しても得られないものの方を才能と呼ぶことにする。
 技能があれば幸せになれるかもしれないが、才能があったら不幸にしかなれないような気がする。

過去の先人達で、天才として知られる人には、きっと豊富な才能があった。何も得られない貧乏な境遇のなかで、才能という心のなかに眠るモノに人生を狂わされ、筆をとらざるえなかった画家達や実験を繰り返さなければならなかった発明家が大勢いた。彼らは本当は何もしたくなかった。
 ただ、平凡な人生を求めていただけだった。
 しかし、才能が許さなかった。彼らは書かされた。自己の才能に突き動かされて書かされたのだ。書かなければ苦しいし、書いていても苦しい。書き上がったほんのささやかな時間だけ、才能は彼らを解放してくれた。砂時計が尽きて、ひっくり返される短い時間だけ、彼らは幸福を感じることが許された。そして、時が経てば、心に積もる砂のような自己の才能に再び苦しめられた。作品が完成しないとき、彼らは苦しみ抜いた挙げ句、多くは自己崩壊への道を辿ってしまう。

 言ってしまえば麻薬中毒者である。
 自己の才能が与えてくれる一時の快楽のために、全人生をかけてしまう。
 創作活動に携わる僕らも、多かれ少なかれ苦しめられている部分ではないだろうかと思う。

 さて、ネットを巡回していると、創作活動に身を置く余り、苦しみ過ぎている人たちがいる。それだけ、彼らの才能が多大であることを証明しているが、余りにも強大な敵と戦おうとしていたり、場合によっては弱い者いじめとしか見えないような憂さ晴らしに徹しているときがあって、気になることがある。

 世界は決して僕らには微笑まない。
 太古の昔より、世界は残酷なだけだ。
 世界を囲い込んで、閉ざされた閉鎖空間のなかで戦っても、恐らく才能はその人を苦しめ続ける。決して解放などしてくれない。一方で、その人を傷付ける者は世界の代理人などではなく、ただ世界の一部に過ぎない。そのような人と徹底的に戦っても、得るべきものはなにもない。
 才能を駆使して閉鎖空間で世界に勝利しても、人格が世界で認められるわけではない。閉鎖空間は、あくまで閉鎖空間に過ぎない。才能や作品が認められるように、自身の人格が世界に認められることはそれほど多くない。

 賞賛と尊敬がなければ維持できない人格や立場がどれほど危うく不安定なものか、どれほど自分自身を苦しめてしまうか――。世界を変えたいなら、まず自分が変わらなければならない。それは、とてもとても困難ことだけど。
――こんな夢を見た。
目も醒めるような澄んだ青空に浮かぶ白い雲。
爽やかな晴天とは裏腹に、私はその空の下、これから処刑される。
叶うことなら永遠に逃れ続けたかったが、こうして軍に見つかった今は、
自分でも意外なくらい穏やかな気分だった。
気がかりなことといえば、残される家族のこと。
僅かながらの遺産は妹に渡ると良いのだが。
目に染みるような鮮やかな青は、綺麗すぎて、どこか胸を切なくさせる。
それでも、これほど見事な空の下、死に赴ける私は幸運なのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は一歩また一歩と自分の足で、己の終焉へと向かうのだった。

――こんな夢を見た。
それは祖母の家の景色に似ていた。私はそれを横たわりながら眺めている。
一体、ここはどこなのだろう。いや、どうして私は横になっているのか。
目を開けているだけでも億劫なのはどうしてだろう。
すると、その疑問に答えるように、どこからともなく声が響く。
まだ目覚めるには早い、もう少し眠っていなさい、と。
ああ、そうだ。
何故だか分からないが、自分でもまだ起きるには早いことを知っていた。
ほら、目を開けているのもこんなに億劫ではないか。
そうして、私は再び目を閉じる。
次に目を開けた時、全身がひどく重く感じた。
思考通りに手足も滑らかには動いてくれない。
そして、私は思い出す。
私は長い長い眠りに就いていたことを。
まだ、馴染めてないのだ。100年かけて定着した、この新しい身体には。

――こんな夢を見た。
幼い私は両親に手を引かれ、笑いながら歩いている。
とりとめもないおしゃべりをして、不意に私は訊いた。
私の名前ってなんていうの、と。
「何を言ってるの?」母が不思議そうに笑う。
「おかしな子だね」と父も苦笑しながら私の名前を口にする。
それを聞いて安心する私。
そう、それが私の名前。どうしたのだろう。自分の名前が分からなくなるなんて。
何だか恥ずかしくて、照れ笑いする私。
けれども、もう一度、確かめるようにその名を心の中で繰り返す。
なぜなら、それは初めて聞く名前だったから。私の名前であるはずなのに。

***

ちょっと趣向を変えて、夏目漱石の『夢十夜』風に書いてみました。この本は10の夢が描かれた短編でして、これに倣って、私の見た夢を挙げてみようということで。

どうも私は眠りが浅いのか、夢を見ない日の方が珍しくて。そんな中で、これらは、まだそれなりに筋の通った(?)展開の夢でしたが、大抵、脈絡なく場面転換したり、ほんっと意味不明なワンダーランドでして(笑)起きてから理性的に考えると悪夢に近いブラックな状況のような…。
悪夢は悪夢でまた、ほんとに恐怖なのを別に見るのですが;

大抵は主観的に展開されるのですが、上記の夢もですけど、私でない人物になっていることもあって。そんなレム睡眠の森の中に彷徨い、ある意味、大冒険を繰り広げてばかりなので、目が覚めても疲労感が抜けてないことが多々あるんですよね。

夢を見るのは、脳がその日の記憶の整理をしているからという説もあるそうですが、その日見たTVや本なんかの影響で、謎の奇天烈ワールドに誘われるなら納得ですけど、そんな心当たりもない日の場合、一体、それはどこからヒントを得た世界なのでしょうね。
私の脳の働きが鈍くて(ひー;)、その日の記憶ではなく、遠い別の日のものがコマ切れにくっついて再構築されたものなのでしょうか。

それにしても、どうせなら、もっとこうハッピーなのとか、お得な気分になれるのとか、萌え活動に役立ちそうなのでも見られたらいいのに…。
と、いうことで、その無念さをここのネタにぶつけてみました(笑)

秋の夜長に皆様はどんな夢をご覧ですか?
※特にお食事前後には相応しくない話題ですのでご注意下さいませ。

実は、前回当番のトイレでのちょっとした恐怖体験から、思い返せば、私ってなんてトイレでの思い出が多いんだろうと、ちょっと唖然としてしまいました。

例えば、遠足で山奥のお寺に行った時、間違って男子トイレに入って、男の子にからかわれ悔し泣きしたとか。というか、誰も使ってなかったんだからいいでしょ!と逆切れしてたような(苦笑)

他にも、今の家に引っ越す前夜のこと。
引っ越し準備の都合で今の家に泊まったのです。
前の家のトイレは洋式だったんですけど、今の家はその当時はまだ和式で。学校とか外出先で和式トイレを使用する時って、まだ子供でしたし、膝丈スカートかキュロット、ズボン着用だったのですが、その頃、夜は貰い物の裾の長いネグリジェを着てまして。
慣れぬ姿で和式トイレに入ったものですから、裾がトイレの中に…ぎゃー。あ、不幸中の幸いは、一応、まだ使用前だったことですが(苦笑)
私の着替えはまだ前の家ということで、仕方なく、その夜は、父のシャツをパジャマ代わりに寝ました。振り返ってみれば、それが今の我が家との最初の思い出…;

トイレでの話ではないんですけど、こんなこともありました。
それは中3の時の理科の授業で、不意に先生に当てられ、立たされた私。
質問は「リンゴを食べるとどうなる」でした。「体内に栄養が吸収される」と答えたら、「じゃあ、その栄養素を吸収されたリンゴはどうなる?」と。
つまり排出されるわけで、そう答えたらまたまた質問。「出されたそれをなんていう?」

えっ?
あのぅ、それって…。

お読み下さってます皆様、ほんとにこんな下品ネタでごめんなさい(平伏)

でも、その時のわたくし、これをどう答えるべきか、一瞬にして固まってしまいました。
一般的に最もよく使われるのは3文字のアレでしょう。でも、これ一応授業ですし、もっと他にお上品な言い方だとか正式名称(?)があるかもしれない。けれども、そう思ったら最後、頭に浮かぶは更にお下品な名称ばかり。あわわわっ。
その当時、大人しい真面目な生徒を演じていましたが、素は全然そうではなく(苦笑)思いつくお下劣なのを口にしたら、普段とのギャップに皆に絶対引かれてしまうっ!

そのうち、クラスでもやんちゃな男の子たちが、振り返ってまでニヤニヤと私の答えを待つし、先生までも「早く言わないと余計言いづらくなるぞ〜」と笑うしで。
――人間って、混乱すると何を口走るか分かりませんね。
臆することなく、一番オーソドックスなのを言えばいいものを、そこで私が口にしたのは何故か「トイレ」。ぎゃっ、何言ってんの、この口はーーーっ

もう、皆には散々に笑われ、先生にも「他のクラスでもこの質問したけど、そう答えたのはおまえだけだな。これ、他のクラスでも言ってやろう」と大ウケされてしまい……(泣)
先生曰く、こういう場合恥ずかしくないベストな答えは「フン」だそうで。(漢字にすると下品な読みもあるのでカタカナです)
動物だったら迷わずそう言えたでしょうけど、でも「フン」は普通、人間には使わないですよね? 先生、それって意地悪な質問じゃないですか?
けど、そこで「トイレ」だなんて答えた私も幼稚園児並……;;;

こうして、記憶の糸をたどると、まだまだ出るは出るは…
トイレにまつわるエピソードがそんなにある私って一体……。
ですが、何もこんな情けない話ばかりじゃございませんよ。
小学生の時、淡い恋心を抱いた場所だったり(え?)
近年だと、友人の結婚披露宴二次会で、会場である離れから、トイレを求めて母屋の方へ彷徨う途中、私たちの高校時代の生物の先生を発見! しかも、ちょうど、皆でその先生の話題をしてた直後!! 何たる偶然!!!
飛び入りで先生からも友人に祝いの言葉を贈ってもらうことにしたのですが、皆、大好きだった先生で、友人も予想外のプレゼントをありがとうと、とても喜んでくれたのが私もすごく嬉しかったですねー。
まぁ、彼女には、トイレ探してきょろきょろ・うろうろしていた私の姿もばっちり見られていて、それはそれでちょっと恥ずかしかったのですけど(笑)

そんな良い思い出もあるんですけど、やっぱり場所が場所だけに、下品ネタ、お笑いネタに転じてしまうのが如何ともし難いところなのでした。。。
10月のゆにぽんは「本を読むぞ」強化月間。私も増えるばかりの「読みたいリスト」を少しでも消化させたい今日この頃です。

岩波文庫なんかにラインナップされているような古典名作にも、読んでみたいものが結構あるんですけど、なかなか手が出せないんですよね。敷居が高いと言いますか、その世界に入り込むのに、すごく気合が必要とされ(苦笑)

そんな時、邪道ではありますけど、文芸モノの映画ってお手軽でいいんですよね。文芸作品ってことで、なんとなく高尚な気分になれますし(笑)仮に内容はイマイチでも、衣装やセットが目の保養になったり。そこに登場するのが好きな役者だと、ほんと眼福♪

ある時、私がレンタルしたその映画も、イギリス文学原作のラブコメでしたが、主演は私の好きな女優、そして、その下にはこれまた大好きな俳優の名が!
それを見た瞬間、これはもう借りるしかないでしょう、と意気揚々とレジへと持っていったのでした。

期待通り、さすがは美男美女、ビクトリア朝な衣装の見目も麗しく、並んでいるだけでもほんとにイイ雰囲気。うっとりとその絵面に堪能していたのですが、物語は急展開。
実は、その彼には秘密の恋人が別にいて、それを隠すためにヒロインを利用していただけだったのでした。

そこまでは展開としても、まぁ珍しくはない話でしょう。
でも、普通、特にこんな恋愛物って、最初に銘打った男女キャストが結ばれ、当て馬的なキャラは、もうちょっと後にクレジットされるのが定石。
この2人が結ばれないというのなら、ああ、この物語って、恋愛成就するという結末じゃないのね……

そう思っていた私でしたが、その後、呆然とするラストが。
そのヒロインは、幼い頃から兄代わりでもある年の離れた男性と結ばれたのです。でもって、その役を演じるのも「ええ!? 本命があの○○でなくて、この俳優?」と、そう思わずにはいられないようなマイナーな役者さんで。←失礼極まりないサホ;
でも、ほんとにその時は、何それ! 何でそうなるの!?――と、裏切られたような気分になり、大層憤慨したものでした(苦笑)

それから1年くらい経った頃でしょうか。
その映画の原作者の別の作品を、これまたドラマ化されたものを偶然TVで見たのです。それにはもう、わたくし、それこそ岩波文庫から出版されていた原作を買いに走るほど、すっごくハメられまして。
なので、ついでに、以前、裏切られたその映画の原作も読んでみることに。

すると、最初から、その兄代わりの彼がずっとヒロインを想っているのがよく分かるのです。で、もう一度、映画の方もレンタルして確認してみたら…ううぅ、情けなくなるほど、私の目は節穴でした…。
ヒロインを見守る誠実な兄代わりの姿の中に、時折彼女への切ない想いが、きちんと画面の中に垣間見えているではありませんか…!

その本命の彼を演じていたのは、舞台メインで活躍なさっている俳優さんらしく、日本での知名度はそう高くない人。一方、最初、本命に見せかけていたキャラを演じたのは、日本でもかなりの人気俳優。
主演女優と私の好きな俳優、日本でなら、その2人の名前を全面に押した方が売れることでしょう。そんな企業戦略に引っかかったばかりに、私は、すっかりその2人が主演なのだと思い込み、初見では物語の核心となるはずの演出に全く気付きもしなかったのです。

まぁ、よく言えば、私はすっかりヒロイン目線で物語を楽しんでいたと、そう言えなくもないのかもしれませんけど、やっぱり、これってただの言い訳ですね;

肩書きだとか、見せかけだけに騙されてはいけない。
それは、人生全般に渡って言えることで、それなりに注意を払っているつもりですが、たとえ単なる趣味の世界のことでも、きちんと物事を見定める目を持たなきゃいけませんね。せっかくの世界を十分に味わえず、損するのは自分ですもの。

もしも、これからご覧になる方がいらっしゃるかもしれないので、この映画の題名は伏せておきますが、ひょっとしたら、ゆにぽんにお越しの皆様の中にもご覧になった方がいらっしゃるかもしれません。これが何の作品かお察しになりましたら、サホの見る目のなさを笑って下さいませ。。。

ちなみに、今では私も、すっかり本命のあの方の紳士たるお姿にメロメロにやられております(笑)
それは私の知らない間に方向性が決まっていたらしい。

現在のぽんたのブックレビューといえば「ゆにぽん本屋さん」なのですが、改装計画があるらしいです。
発案者の二人(にらとぬりかべ)が何も言わないので何故そんなことになったのかは知りませんが、今後の本屋さんは「クロスレビュー方式」になるようです。
レビューを書くのはにらもぞぬりかべの3人。
それぞれ月に一冊だか二冊だか本を読み、読み終えた本を三人で回し読みしながらレビューをそれぞれ書いていく方式、らしいです。
ぽんたのサイトには管理人紹介のページがないので、このレビューで違った一面をお見せすることが出来るかもしれません。
不安があるとすれば。
三人の中で一番本を読むのはぬりかべです。
彼がセレクトする本は長編が多いので、読破するのが大変そう…しかも「押さえて」君だったりもするので「一度は読め!」という感じでスペースオペラ風大河小説とか、漫画界でも大御所の描かれたものとか、とにかく趣味に合う合わない関係なく持ってきそうなので、私は不安。
三人の中で一番マンガを持っているのはにらです。
にらの持っているマンガは多種多様で、何を引っ張り出してくるかわかりません。
先日、いわゆる同性愛関係のマンガを読ませて頂きましたが、例えばその作品のレビューを書けと言われて書けるかどうか…「いやぁ、男は眼鏡に鎖骨に白シャツですね」とか書けとでもいうのか、みたいな…(錯乱中)
ちなみにぬりかべは「研究者の男ってのは餌食になりやすいんだな、気の毒に」…なんていう感想を仰っておりましたが…
不安だ。
三人の中で一番無趣味な私は何を紹介できるのか、そのことが不安です。
まぁ、興味がなければいつまでも空欄にしておいて良い、というルールも決めましたし、まったりゆるゆる更新できればと…思ってますが、本屋さん改装はもう少し先の事になりそうです。
気長にお待ち下さいね♪
「質問です。お二人の将来の夢はなんですか?」
「答え?ネコ耳をはやす
   ?しっぽをはやす  さぁ、どちらでしょう!」

先日、小学校来の友人・ヨミの結婚式がありました。
ヨミは手先は器用なのですがとても不器用な性格で、うちとけるまでに時間のかかるお嬢さんです。
だけれども仲良くなってしまえば彼女の魅力にやられない者はなく、誰しも名字よりは下の名前で呼びたくなるような末っ子体質の持ち主です。
彼女の不器用さは「強情」という形で発揮されます。
妥協を良しとしない性格は時として凶器となり彼女自身をも苦しめますが、彼女の良いところは粘り強く話し合いを持つことで事態を解決しようとする姿勢を忘れないことです。
決して他人の意見を受け入れないわけではないのです。
だから彼女と喧嘩をしても、仲直りの努力をしない友人はいません。
その喧嘩はむしろ議論と呼ぶべきものだと思っているからです。
それに日頃の彼女はほんわか癒し系な人なんですよね。
ぽややん、うん、結構この表現が当てはまります。
***
まぁそんな可愛いヨミちゃんも結婚したわけですが。
相手の方もヨミの相手らしい手先は器用だが性格は不器用、という九州男児でして。
そうですね、イメージとしては堺雅人さんのような方です。
はにかむ姿がまた乙女心だか母性本能だかをくすぐるというか。
何だか二人並ばれると「見守ってやらないと心配だわ…」という和やかな雰囲気なんです。
でも芯はしっかりした二人だからね♪と友人一同思っていたわけですが………。
***
そこで冒頭のクイズになるわけです。
結婚式二次会のゲームなんですけどね。
設問を見た会場一同騒然となりました。当たり前だろう。
「なぁ、もぞ、どっちだと思う?」
「…ヨミなら尻尾とみた」
「奇遇だね、私もあいつは尻尾だと思ったところだよ」
高校までの友人一同は?をセレクト。大学の学友や親戚や同僚の皆様方は?をセレクト。
さあ!答えは?

「?のしっぽです♪彼も私も将来お互いのペットになれればいいなぁって思ってます♪」

当たって嬉しいのやら…いや、勝負事は何でも勝つことが大切なんだけどね…それに、らしいとは思うんだけど…ほら、意外に芯はしっかりしていることを友人である私たちは知っているわけで…
何とか自分を納得させようと思っている私の横でぼそっと呟く男が一人。
「大丈夫かよ、おい、悪いが俺はあいつら二人を容易に騙すことが出来るぜ」
「そうだろうね…でも騙さないであげてよ、ボランティアだと思ってさぁ…」

幸せになってね、ヨミ♪
昨日のにらの週番自由帳を読んで思い出したことがあります。
それは彼女が「文章を書くのが苦手」ということです。
ぬりかべにしてもそうなのだけど、にらは文章といえば手紙でさえも書こうとしない人間です。私とやりとりするメールも不思議文字と不思議文章に彩られていて、すぐに理解するのが難しいときさえありますし。
例えば。
「それで良いです。了承しました」は「それでよろしゅ、桶」
「ともあれお疲れ様です」は「ともあれおっつーでっし」
これらの文は、ほぼ単独で(一行オンリーで)書かれているため、文脈から類推することも不能だったりします。
判読するときは「フィーリング第一主義」です。
びば☆同調技能。

ところで、私とにらは第三者から見れば「小学校時代からの友人」という関係です。
でもね、よく考えてみると小学生の3年生と4年生頃に同じクラスだったというだけで、中学校の時は深い交流があったわけでもなく。いや、普通に仲良くはしてましたが、おそらく彼女の記憶に当時の私は残っていないかと思われます。
高校生になって同じクラスになったことが、おそらく今の関係の基礎を築いているのでしょう。
高校一年生の夏の終わり頃、私は急に思い立って部員のいない休部というか廃部寸前の部活に入部しまして。
顧問の先生は名前だけの存在で「入部したのでよろしく」と挨拶に行っても「部員が部長一人というのは…」と露骨に嫌がる始末でして。
とりあえず部員を増やせばいいわけね、とタンカをきったまでは良かったんですが、ほとんどの人はもう別の部活動をしている時期で、誰も入部しようとはしないわけです。
掛け持ち可・優先順位最下位でも可・私が部長だから部室は趣味にでも使い放題、という条件を引っ提げての勧誘で「いいですよ」と言ってくれたのが、にらでした。
多分同じクラスでなかったら入部はしてくれなかったのではないかと思います。
ちなみに彼女にとっては3つ目の部活動です。
(もう一人、「部室使い放題」という条件にのってきた同人誌作家?を目指す例の悪友も入部してくれました)

ここで今思っても不思議なことが。
彼女、皆様もご存じの通り文章書くのは下手ではないのですが、苦手なんですね。
一時間を与えて文章を書くように頼んでも、多くて原稿用紙半分も書けなかったんですよ、当時。
私が勧誘したのは「新聞部」…何故彼女が入部してくれたのか、謎です。
彼女はその動機を今でも覚えているのでしょうか…多分覚えてないんだろうな…
今日は自分と文章についてつらつら書いてみようかと。

昔から作文を書くのは大嫌いで、作文は書きたくないし、英語も嫌いというとても後ろ向きな理由で理系に進んだ私が、小説らしきものを書いたのは高校の時。二次創作で、前の週番日誌で書いたやおいに転んだことがきっかけでした。
それでも、それまでは主に「ロードス島戦記」やTRPGの影響を受けてファンタジー世界の設定を空想したり、絵を描くのが中心だったので、文章を結末まで書けたことも、人に読んでもらって感想までもらえたのもはじめてで、うれしかったのを覚えています。

そして、今、それから何年かぶりにこうして文章に再び向き合ってる訳ですが、サイトを立ち上げて五ヶ月、勢いと萌えのままネットに曝してきた自分のブツたちを振り返って思うことは、もっと「文章」を書きたいなぁということです。

正直、感想をもらえることはぜんぜんというわけではないですが、ほとんど考えていなくて、本当に勢いだけで自己満足で書いてきたそれらブツたち。
浅くて、独りよがりで、
けっして読みやすいものではないです。
感覚で書いている行間ありまくりな文章。
文章の流れというか語彙や読んだ時の響きを重視しすぎて、内容がそれにぜんぜんついていってません。

でも、そんな文章にありがたくも感想を頂いて、それが自分の文章を見直す機会を与えてくれました。
そして欲がでてきました。
自己満足だけではなくて、読むのに堪えられる、楽しんでもらえる文を書きたいという欲です。

最近「見直し」のはじめとして、本を読み始めてます。
就職してから、学生の頃以上に忙しさにかまけて、殆んど文章を読むということをしていなかったのですが、食わず嫌いも改めていろんなジャンルの本や映画(これも殆んど見てない;)に接していきたいなと思ってます。

熱しやすく冷めやすい私ですが、幸い周りにははっぱをかけてくれるというか、どんなに拒否してもぬりかべのように無理やり人に(本や映画を)見せるという特技を持っている人物もいますし(笑)、もっとサイトを楽しく運営したいという欲を持ち続けて精進したいと思います。


毎回ふざけた週番日誌で恐縮なのですが、あら気付けば今回はなんとなくいい話(?)ですね、うふふ。
「●●さん、家では料理作ってる?」

↑のセリフ、年上の方(男女を問わず)と話しているとたびたび出てくる質問なんですが、これって大概セクハラですよね・・・?

と思う私は、料理があまりというか、ぜんぜん得意ではありません。食べる専門でやってる人です。

料理を作るという行為自体、もうめんどくさくってやってられないのですが(方言なら「キチー」「ダリー」に私の中で分類されてます;)、それ以上に、自分だけでなく他の人にも迷惑かけてしまうのが、だめだめな気が致します。
まあ、端的に言うと、「まずい」んですよね。
そして、量をを間違える。多目に・・・

学生時代は私の料理は危険物として認識されてました。

原因を思いつく限り並べてみると、

?ビジョンがないまま作り始めてしまう。
?調味料を感覚で使ってしまう。
?使う器具は包丁、ピーラー、おたま、菜ばしのみ
?その場にある材料全てを使ってしまう。
?結果量の加減ができない。
?味見をしない。
?どうにもならなくなって創作料理を目指してしまう。

といったところでしょうか。
あは、何が一番だめでしょうか?
私としては?あたりがいちばんクサイ気がするのですが(笑)

それでも汁物系はまだましに作れます。
切って入れるだけだし、鍋一杯に作れるので。
カレー、シチュー、おでん、豚汁は得意と言ってもいいかもしれません。調味料はせいぜい使って塩、コショウぐらいですし。

が、微妙なさじ加減必須というか、「さしすせそ」が入り乱れてくるともうお手上げです。
お菓子類は言うまでもなく、ですね。

なので、料理本すら見ずに料理を作れてしまう人、作りおきができてしまう人、残り物を有効利用できる人は私にとってはもう魔法使いの域です。

何が違って料理ベタな人、うまい人に分れてしまうのでしょうね。
作るのが嫌いという時点でつまずいているのはもちろんあるのですが、やはりそれも育ってきた環境が影響しているのかなと思ったりします。

ずっとこれまで、母は料理がうまい人だと刷り込みのような認識があったのですが、最近思ったこと。

ママン、ひょっとして貴方も料理つくるの嫌い・・・?

?カレー・・・材料の切り方が大きすぎ(たぶん私の小さな頃の人参玉ねぎ嫌いはこれが原因)
?弁当にぎょうざを入れる(いくら焼くだけだからって・・・いや、作ってくれるだけありがたいけど<泣>)
?夜のおかずはたいてい焼き魚(これも焼くだけだから?いえ、今は年くって嗜好が変わったのでぜんぜんいいのですが)
?スパゲティに炒めた野菜とマヨネーズという微妙なコンビネーションの昼食を昔よく食べさせられた。その他にもいろいろ。。。
?正月の雑煮はおすましにして下さい。そして、ホウレン草ともやしはおもちにくっつくので入れないで欲しい・・・

やや(?)、個人的な好みや恨みごとが入ってしまいましたが・・・。

もちろん彼女は、大きな魚もさばけるし、それだけでもやはり私にとっては大変な魔法使いなのです。
何より、ごはん作ってもらうのはありがたいことです。上記のようなことがあってもおいしく(?)頂いてます。

ですが、どうしてもがまんできないことが、
彼女に直接言うともうごはんつくってもらえなくなるので、ここで言ってしまいますが。

「いくらポークシチューだからといって、それに混ぜて残り物のチャーシューを入れるのはやめてください、お願い」

これって、世代間の感覚の違いなんですかね?
こんな料理環境が、今の私の料理嫌いを育んだといえなくもないかもしれない(もちろん言い訳)
決して彼女を責めるワケでは・・・ええ。でもチャーシューはどうかと思うんですよ。。。

皆さんのご家庭ではどうですか?
僕の身の回りに、プンプンと世の中に怒っている人がいる。
「世の中間違っている」「これはああすべきだ」「アメリカは許せない」
などと、いつも怒っている。唐竹を割るように小気味のよい発言は好感が持てるものの、意見を翻すことはないし、迷惑をかけても顧みないしで、どう対応していいか分からなくなる。
僕には、世の中に怒ることで、人生がつまらない鬱憤晴らしをしているとしか思えない。
そういった人達は、先生によく似ていると思うし、へたすると先生そのものだったりする。
きっと、学校にいるあいだは優等生であったのだろう。頭はいい。
要するに、頭のいい馬鹿ということなのだろうか。
例外なく、僕もその部類に入る。

これら主義主張の強い人、正義や信念を恥ずかしげもなく口に出来る、学校の先生によく似た人は、どこか病んでいると思ってしまう。なぜなら、彼らの正義や信念を聞いていると、そのなかで快適に生きていられるのは、主張している彼らのみだということが多いからだ。
彼らが主張する世界が実現して、最も得をするのは彼ら自身と言うのは、とてもいやらしいことだと思う。
一人しか生きていけない世界をつくっても、つまらないのではないだろうか。

また、時として彼らは、味方だったあらゆるものをかなぐり捨てて、勝ち目のない勝負や勝ちが存在し得ない戦いに打って出ることがある。
横で見ていて、いつだって訳が分からない。
なんだって、このような状況で、そのようなことを言いだすのか、やりだすのか。
彼らは特に追いつめられたわけでもないのに。
しかし、いまや何となく、その気持ちは分かる。
結局、彼らは自分たちの心の救済以外には興味がなかったのではないかと思う。

口では大義を唱えつつも、人から認められたいという虚栄心。
何か大きいことを成し遂げたいという野心。
誰にでもあるだろう。
耐えきれない寂しさ、助けを待つ気持ち、誰だって涙と共に味わったことがあるだろう。
しかし、いつだって、それらは簡単には埋められないものなのだ。
誰もが知恵を使い、プライドと体を張り、人生をかけてそれらを埋めている。この世に生きている全ての人間が苦しんでいる。苦しいのは、彼ら一人だけではない。

彼らが、一人しか生きていけない世界を語り、自分たちのことだけしか興味がないのは、ひとえに、この世の中で苦しんでいるのは自分ただ一人だけだ、と考えているからではないだろうか。
そう考えている限り、心の穴は埋まることはない。
彼らは、生きている限り、怒り続けるのだと思う。
小学校のころから、あまり先生というものが好きではなかったけれども、高校生になるころだろうか、先生の言ってることと現実の世界に、えらいギャップがあることに気が付き始めた。

先生は言った。
「頑張れば必ず報われる。努力はいつの日か実を結ぶのだ」
それは嘘ではなかったが、事実でもなかったと思う。
頑張っても失敗することが多く、努力が全く実を結ばないことも多かった。
努力は大事だが、その前に工夫こそ必要だった。
古めかしい非効率な方法のまま、繰り返し努力していても、成功させたいことは遠のいていくばかりだった。
だが、先生達の目指す努力の形はそういったものだった。
駄目そうだと思っても一歩も退くべきではない、脇目も振らずがむしゃらに――、そんなことを言っていたような気がする。
それらは、受験勉強の一部にしか効果的ではなかったような気がする。

こんなことも言っていた。
「悪いことをしていればいつか報いがくる。この世に正義はあるのだ」
大嘘だった。
まず、正義があるかはともかくとして、正義とか悪とかの区分け自体が存在しなかった。
人に優しくすることは決していいことではないと分かったし、人に意地悪をすることも悪いことばかりではないと分かった。

また、悪があるとしても、人は誰かのために悪になることが多く、見方を変えれば正義だった。正義と正義の争いしか、この世にはないのだと分かった。
必要なことは、より良い正義を見抜くことだった。
より悪い正義を排除することだった。
また、悪とされているもののなかにも、小さな正義があることを認めることだった。
世の中は○と×だけではなく、その中間の△があり、○と×でしか判断できないような学校の訓練は有益ではなく、無害を通り越し、有害ですらあったような気がする。

そういうわけで、先生達は非常識だった。
新聞にそのような趣旨のコラムを発見するたびに、僕もつくづくそう感じる。
先生の言っていることを体現して生きていたら、相当に生きにくかったろうと思う。視野も確実に狭まっていたろうと思う。世界を窮屈に感じ、人生をつまらなく感じていたのではないだろうか。

しかし、それで先生達に常識を持って欲しいとは、そこまではなぜか、僕は思わないのだ。
それどころか、僕は、いまだに、これからも先生達が非常識であって欲しいと思っている。
「努力は報われる」
「正義は必ず勝つ」
馬鹿らしい。だけど、そのような恐ろしく馬鹿馬鹿しいことを先生達には死ぬまで言い続けて欲しいとなぜか思ってしまう。
なぜだろう。

先生達は非常識だ。しかし、非常識だからこそ純粋でいられる。
純粋だからこそ、言える言葉がある。
低俗にまみれた人間には言えない言葉がある。
そんな言葉が世の中に必要なときがある。
人の見えないところで、人を支えているときがある。

先生達の言動が有害であったという僕の思いは消えようもないけれど、多分、僕はそうとでも思って、無理矢理、先生を愛すべき存在として認識しようとでもしているのだろう。
椅子とテーブルがある。
どちらも足があるのは一緒だけど、僕らは一目でそれと分かる。どちらが椅子でどちらがテーブルか見分けることができる。
ナイフとフォークも分かる。どんなに装飾が施されていてもそれと分かる。
まず間違えることはない。
テーブルに座って、椅子に茶を置いて飲む人はいない。
肉をフォークで切って、ナイフで口に運ぶ人は見たことがない。

きっと、僕らの頭のなかにある何かが、椅子とテーブルを直観で区別してくれる。
僕らに教えるのだ。
これがテーブル、あれは椅子。ナイフは鋭い奴で、フォークは三つ叉の奴。
そう、教えてくれているに違いない。

さて、ここに宇宙人がいるとする。
宇宙人は、椅子もテーブルも知らない。
きっと、宇宙の果てでは、椅子もテーブルも使わないからだ。
だから、宇宙人は、テーブルに座って、椅子に茶を置いて飲んでしまうかも知れない。
フォークもナイフも使わずに肉を食べるかもしれない。
宇宙人の特異な体はそれを可能にするだろう。
だけど、翻って考えてみる。
逆に僕らは、宇宙人のことが分からないのではないか。
宇宙人の持ち物の全て、どれひとつとっても何に使う物か理解することはできないのではないか。
なぜなら、知らないからだ。
知らないものは、僕らの頭がいかに優秀でも直観で判断することはできない。
僕らは宇宙人のことを知らないから、宇宙人のことは何一つ理解できないに違いない。 いや、そもそも、宇宙人を見ても、宇宙人を知らないわけだから、宇宙人だと分かるわけがない。いったいどんな姿をして、どんなことが出来る奴が宇宙人だと言うのだろう。

僕は宇宙人と言った。
だけど、宇宙人がどんな奴だとかは言わなかった。
言わなくても、読んでいる人達は、勝手に想像したのではないか。きっと宇宙人はこんな奴だと。
みんながみんな、めいめい勝手に作り上げたのだ。きっと宇宙人はこんな奴だと。
 
僕らの頭のなかにある何かは本当に優秀だ。
宇宙人などという、全く意味不明な存在に対しても、大体こんなやつだろうと当たりをつけてくれる。
しかし、それは本当に当たりだろうか。当たりかどうかなんて分からないはずだ。宇宙人がどんな奴か、確かめる方法などあるわけもないのだから。

それは、宇宙人にとどまらない。
分かっていることの方が実は少ない。
僕らの世界は分からないことだらけのはずなのだ。
僕らはただ分かった気になっているだけだ。
僕らの頭は世界を調和のとれた舞台に演出してくれている。

2000年前の人類は森に妖精を見た。神すらも見た。
それが彼らが見た調和のとれた世界だった。
調和。
その結果である神や悪魔のいる世界。
それが、今の僕らと全く変わらない仕組みの脳を持った人類の見た世界だった。

さて
今の僕らは、何を見ているのだろうか。
世界を調和のとれたものと見なすために、どんな夢や幻想で心を満たしているのだろうか。
連想ゲームといえば聞こえも良さそうですが、所詮は貧困な思考回路。前回のとぽんたが瀬戸壬生贔屓ということで、このタイトルです。芸がなくてごめんなさい〜〜〜;;;

ごく一部では既に知られていることですが、わたくし結構、声フェチでして(笑)ファンクラブに入るということはないですけど(好きな声優さんの名を挙げればキリがないですし)。
何気なく見たアニメでも、好きな声を聞きつけると、大して面白いとは思えなくても、つい、声目当てにずるずる見続けてしまいがちです。
洋画も、映画館で観る時は字幕が多いですが、ビデオをレンタルする時は、余程イメージが損なわれない限り、吹替え版を選ぶことの方が多いかもしれません。
映像そのものに集中出来たり、また逆に、ながら作業が可能という利点があるので。
それに私の場合、外国人だと、なかなか顔と役名が一致しないので、吹替えの声でキャラを判別した方が手っ取り早いんですよね(笑)

さてさて。
学生の時、クラブの合宿最終日に某テーマパークに立ち寄り、後輩たちとホラーハウスに入りました。そこは5、6人が1グループとなり、ヘッドホンをつけ「ヴァンパイアの館」を進むというもの。
そのヘッドホンから聞こえるのは館の主である吸血鬼のナレーションなのですが、思わずそれに反応するサホ。後輩も同じでした。「先輩! これって○○さんの声ですよね!?」と。
やっぱり! 私の聞き間違いではなかったのね!!!
前回もお話したとおり、吸血鬼って美形というのがお約束。お声の麗しい声優さんが使われたようで(笑)

耳元では恐怖に突き落とそうとする内容のナレーションが続き、一緒のグループになったカップルは、彼女が悲鳴を上げながら彼氏にしがみついてましたけど(実際、どこまで怖がっているのかは不明ですが・笑)私たちは悲鳴は悲鳴でも「きゃ〜vvv」な感じの大変黄色い声。
で、最後、出口で呪いの言葉をかけられるのですが、そのお声でなら、もう存分に呪って下さいまし、な有様でした(笑)

こんな私ですので、ネオロマ系のゲームにはすごーく興味はあるのです。
その合宿には生憎、不参加でしたけど、ファンクラブに入るほどその声優さんのファンの後輩がいて、その子からも、その声優さんご出演のネオロマ系作品をやれば絶対ハマりますよ〜、と勧められていました。
言われるまでもなく、そうなるのは目に見えているのですが、プレイした暁には現実世界に戻ってこられなくなりそうな……
なので、今のところ、ネオロマ系には手を出してはならないと自戒しています。

けど、10月から『遥かなる時空の中で』のアニメが始まっちゃうんですよね。
これのマンガは、一時期、連載誌を買っていたので途中までは読んでいて。私的にはキライじゃないけど、特別ハマるということもないなぁ…と作品でした。(お好きな方ごめんなさい;)
ただ、それぞれの声を考えると、途端に萌えゲージが上がり出すんですよね(笑)
我ながら現金なものです。
けど、声ってすごく印象を左右しませんか?
好きな作品に声が付く時、それがイメージと合わないと落胆したりとか怒りに打ち震えたりとか、よくある話ですよね。

思うに私の場合、男性に騙されるとしたら、見た目より声に惑わされる可能性の方が高そうです。美声であればあるほど、騙し文句もさぞかし有効に働くことでしょうし(笑)
とりあえず、遥かアニメ放映日は要注意でしょうね。
ゲームはソフトを用意しなきゃ出来ませんけど、TVは電源入れたらいいだけですし。日頃からTVっ子な私ですし、容易く籠絡されそうです。既に好きな声優さん揃いなのは分かってますしね。
見たら最後、勢いで翌日にはもうゲームにも手を出してたりして……。
そんなこんなで、私のネオロマ封印が解ける日はそう遠くないのかもしれません。

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