年を取ると味覚が変わったり、肌も曲がってきたり(泣)そして、よく、涙もろくなると言いますよね。
以前の私は全然泣けない子でした。いえ、泣きはするのですが、それは大抵、ケンカして悔し泣きとか、そういう涙が多くて(苦笑)何か見たり読んだりして、感動のあまり泣くとか、そういうことは滅多になかったのです。誰かが病死する物語などは、まだ少しは泣けましたが、例えば『火垂るの墓』みたいな戦争モノは全然ダメ。可哀想には思うのですけど、戦災に遭うのは、あの兄妹だけではないし…と思ってしまう辺りが。。。

「以前」ということは、つまり現在は違うということ。
自分でも驚くほど、いつの間にやら涙腺がゆるゆるになってしまいました。死にネタは言うに及ばずですが、夏のアテネ五輪の時なんかも何度もうるっときてましたし、それこそ『ハウルの動く城』でもいろんな場面で目を潤ませてましたしね(笑)最近では『となりのトトロ』なんかでも泣けるくらいです。

年を取って涙もろくなるというのは、実は私、子供の頃はお年寄りが体力の衰えとともに心弱くなっての現象なのだろうと思っていたのです。そういうこともあるでしょうけど、最近では積んできた経験によるものかなぁと思うようになりました。それは感受性を磨くというより、心の琴線を増やしてゆくようなもの? 実際経験したことがあるのとないのでは、感じ方もまた違ってきますものね。その思い出が喚起されたりとかして。

そうはいっても、たとえ、どれほど長生きたとしても、すべてのことを経験出来るわけではなくて。そういう時こそ想像力の出番であり、その作用が感受性を磨くのかな、なんて思ってみたり。

生きている限り、人は刻一刻と時を過ごしているわけですものね。確実に、昨日より今日、同じ今日でも、一秒前よりは今この瞬間にも、また人生を積み上げていて…。
過去に縛られ過ぎる必要はないでしょうけど、それがたとえ自分には未体験のことでも、それまでに積んできた別の経験から分析してみたり、それすら役に立てられそうになければ、分からないなりにも、それを思い遣ったり推し量ったり。そういう努力が大切であり、そうすることで一層、心も豊かに成長させられるかなぁ……と、そんなことを何となく、不意に感じる今日この頃です。

もっとも、別に泣けるようになったからといって、必ずしも心が豊かだとか、自分が成長したという証にもはならないですけど;
泣くことで、悲劇のヒロインぶって陶酔したいだけかもしれませんし(苦笑)泣くという行為でカタルシスが得られるとも言いますしね。
ただ、こうして、昔とすこ〜し変わった自分を振り返ってみると、私もそれなりに人生を歩んできてるのかなぁ、なんて、ちょっぴり感慨深いような気になったり(笑)

実はずっと、悔し泣き系以外では、あまり泣けない自分が、何だかとっても感性の片寄った女みたいでイヤだったんですよねぇ(苦笑)
けど、涙もろくなると、それはそれで問題が。特に映画館で。先日のハウルの時もそりゃあ大変でした。なぜなら、泣いてパンダ目になるワケにはいかないのです。なので、やたら瞬きしてみたり、涙がこぼれないように目にぐっと力を込めてみたりと、それはもう必死! 最初から泣くことを想定出来ていたなら、それなりの顔を作って出掛けたんですけどね〜(笑)
近頃ではお涙頂戴モノと分かっている作品は、レンタルして家でティッシュと仲良く鑑賞です(笑)

ああ、でも思えば、一体いつからすっぴんじゃ外に出たくなくなったのでしょうねぇ……
しわの数も人生の勲章の如く誇れるくらいになるのが、私のちょっとした憧れの生き方なのですけど、でもでも、やっぱり、少しでも若い肌を保ちたいと足掻かずにはいられなかったりとか。むー。
こういう無駄かもしれない努力をしたくなるのも、これまた、昔じゃ有り得なかった時の流れの中での変化ですね(笑)
それは運命の出逢い。
一目見たその瞬間、私の心は貴方に奪われてしまったのです――

――な〜んて。色めく話ではないのですが(笑)

私が一番、マンガを読んでいたのは中・高校生の頃。あの頃は友人たちと貸し借りの日々でした。特に中学生の頃は、例えば、作家だったり、出版社だったりで各自担当分野(?)みたいなのがありまして。それを侵してはならないという不文律が生まれ、皆、なるべく違うところから新たな作品を発掘してはそれを周りにも貸す、みたいな。
そういう状況で、既に誰かが持っている作品を買うとなれば、それは結構な秘密事項でした。今から思えばとっても思春期的な感じですよね〜(苦笑)他の子から「これ買ったこと、○○には内緒にしてね」と頼まれたりとか、そんなやりとりも懐かしいものです。
こういう貸し借りをしていたお陰で、自分からは手に取らないような作品にも多く出合うことが出来ました。そういや、BLな作品デビューも、意外なことににらねーさんよりも私の方が時期はずっとずっと早かったらしいんですよねぇ。あはははははは。

その後、大学でもマンガ好きな友人はいましたけど、かつてのような頻繁な貸し借りはなくなってしまいました。これは、私もですが、実家から遠距離通学という子が多く、お互いに移動の負担をかけたくなかったというのが大きかったような気がします。実際、私に本を貸してくれるのは、もっぱら寮生か下宿生でした。
それでもまだ、本を通じて楽しみを友人と分かち合うことの出来る日々がありましたが、社会人になり、配属された部署というのが、それまでとはまさに対極。。。

それは、月9みたいなごく一般的なドラマとか、人気のバラエティーとか。そういうメジャーなTV番組を見ているだけでも、半ば呆れがちに感心されるくらいなのです。決して、マイナーな深夜アニメとかの話ではありませんよ(苦笑)
なので、サホはゲーム好きですけど、ヘタなので、実際プレイした作品は少ない方ですのに、そんな私ですら「…ゲーマーなの?」と言われるくらいでした。
ゲ、ゲーマー? 私レベルで?! っていうか、そのビミョーな「…」も痛いんですけどっ。
マンガを含めて読書好きというのは、何となくバレましたけど、あの同情すら漂うような視線がつらくて、「あれば何でも読むんですよ」というスタンスを保つことにしました。卒業学科がそういうところだと皆さんもご存知でしたので。

そんな中に置かれてしまうと、それまであったような本の貸し借りはもちろん、情報交換すらもゼロに等しくなり…。
よく「社会人になったら卒業」みたいな言葉を聞きますけど、私の場合、否が応にも環境がそうさせたという感じでしょうか。そのうち仕事に忙殺されるようにもなると、好きなマンガでも、新たな作品に手を出す気力・体力・時間もなく、せいぜい、それまで買い続けていた作品くらいしか読まなくなりました。
今思えば、あの頃の私は、人生の中で最も無趣味期間だったでしょう。TVですら、ドラマは激減、毎週見なくてもOKなバラエティーを見る程度。アニメも週末の深夜に放送されているものくらいしか見てなかったですし、ゲームはほとんど触ってもいなかったように思います。

そうこうして、その仕事を辞め、ようやく趣味も再開。
久々に、これまで読んだことのない作家さんの作品なんかにも手を出せる余裕が出てきましたが、それでも、気付けば、かつてのような情熱がないのです。それはマンガや本を読むこと自体への熱意の問題ではなく、手に取るまでの気持ちの高まりとでもいうようなもの。

今って、ネットとかで何でも情報収集出来て、その作品の評判とかすぐ分かるんですよね。それはすごく有難いのです。失敗するリスクも随分減らせて。
ただ、昔は、今ほど裏表紙にあらすじが書いてあるようなことも少なくて、表紙絵とかタイトルくらいの判断材料だけで、購入すべきか否かの駆け引きを楽しんでいたような気がするのです。それで痛い思いをしたことも、とってもありますけど(苦笑)予想を超える読後感を得られるのは、まさに至福!

ところが、今の懐具合は、昔よりもずっと自由になったのに、もちろん金銭的なこともありますけど、昔は思いもしなかった、時間を損したくないとか、本棚スペースを考えたりとか、そういうことまで妙に合理的に考えてしまって。
ある程度の満足度が得られることを予め保証されていなければ購入には至らないのです。そんな妙に「大人」な予防線を張って、作品を選んでいる自分に気付き、ちょっぴり悲しくなりました。

インスピレーションだけで作品を手に取る。遊び心といいますか、ちょっとした冒険心を取り戻し、店頭にて、まだ見知らぬ作品に情熱的な一目惚れアタック(笑)を仕掛けたい今日この頃なのでした。

想像力 担当:もぞ

2004年12月22日
想像力。
私にはこれが著しく欠けている。
学生時代、国語は得意中の得意であったから、まさか自分がこれ程までに想像力が欠如しているだなんて思いも寄らなかった。
「作文」は苦手だが「小論文」は得意。
自分の感動を人に伝える能力は乏しいが、何があったか時系列に伝えることは大好き。むしろ時系列でないと伝えられない(おいおい)。
今から思い返せば、確かに私には想像力をないがしろにしてきた傾向にあった。

例えば、詩歌なら与謝蕪村系統以外は読解不能。かの有名な室生犀星の「小景異情(その二)」は授業を受けるまで作品の良さ・深さが欠片も理解出来なかった。
小説なら、夏目漱石の「こころ」の先生からの手紙は授業を受けるまでただの「手紙」としか感じられなかった。むしろ森鴎外の「高瀬舟」の方がリアルで好きだった。
百人一首でも恋の歌なら「忍ぶれど色に出でにけりわが戀(こい)は 物や思ふと 人の問ふまで」とか現代語でも分かりやすい歌は好きでしたが、「忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の をしくもあるかな」という業の入った歌は授業で解説を受けるまで面白さが分からなかった。
学校の授業は為にならない、よろしくない、押しつけだ、という意見もあるでしょうが、私にとっては国語の授業がなければ潤いのない日常を送る可能性が高かったので、学校教育には感謝しています。

話がそれましたが。
大学に入って、いわゆる国語の授業がなくなってから、私の生活はカラカラに乾きはじめたワケですよ。
大学の貴重な時間で読んだ小説は2冊くらい、それも新聞連載のものだった。
時間はあったのでテレビドラマのチェックは怠りませんでしたが、今もしっかり覚えている作品となるとごくわずか。
映画はデート以外で自発的に見に行った作品は1本、それも鬼平犯科帳の劇場版。
――想像力の翼を広げるのに役立たない生活を送っていたんですよね…そして、それが不都合だと思ったこともなかったわけで。
いや、むしろ。
想像力の発達した方々を「妄想癖の強い人」と笑っていた自分がおりまして。
例えばぬりかべとか。
ヤツの妄想力の凄さは誰もが認める所だったしね。
そういう心持ちでいた私が、まさか想像力欠如を嘆くことになろうとは思いもしなかったわけです。…そりゃ想像力がないからさ。

ところで。
私の好きな本の分野に「医学」関連、「殺人事件分析」関連、「時代物」関連、「推理小説」関連、というのがあるのですが、実はこれが好きなのは、多分私に想像力がないからじゃないかなぁと思ったりしています。
血がプシューとかドバーとか腕が飛んだり首が飛んだりする描写を読んでも気持ち悪く感じないので。
「怖い話」関連は嫌いなのですが、理由は怖さが想像出来ないから…映像や漫画にして貰えば好きなんですけど…
音声だけの話も苦手で、朗読劇やドラマCDを聞いていると途中で意味が分からなくなってしまいます。多分別のことに気を取られてしまうからでしょうが。

ぽんたは当初、オリジナルとブックレビューのサイト、という位置づけをしていました。
オリジナルをぬりかべ、レビューをにら、そして管理人が私。
――管理人である理由が無趣味だったから、というのは、つまりは私が何かをアウトプット出来る人間ではない、蓄積がない、ということに他なりません。
いや、無趣味だけど、想像力もないけど、面と向かってそれを指摘されるのは…くやしい。
一念発起でイラストを描く練習を始め、ガンパレファンサイト様の所で世界観に浸り、どうやら「捏造」と「想像」と「妄想」は似ているぞ、ということに気付き、今に至ってます。
まだまだ発展途上ではありますが、想像力が養われるといいなぁ。
略して書くと何かのタイトルのようですが…ブレーンストーミング brain storming 、集団(小グループ)によるにアイデア発想法の1つを指している用語です。
1940年代のアメリカの広告業界で発案され、その信条は「つまらない発言でも、討論に参加する他の誰かにとっては別の素晴らしいアイデアを連想するスイッチになる(かもしれない)」というもの。
ブレスト単独では、意思決定や調整の役にはちっとも立ちませんが、別の分析・整理法と組み合わせることで真に独創的なアイデアの抽出に役立ったり、問題点を洗い出せたりする、とっても有益な方法です。

ブレストには基本となる4つのルールがあります。

1.他人の発言を批判しない。
2.自由奔放な発言を歓迎する。つまらない・乱暴・有り得ないは大歓迎。
3.アイデアの質より量を求める。
4.他人のアイデアに便乗する。思いつきでくっつけてもOK。

というもので、とりあえずアイデアは出しまくり、討論者(というより発言者か。ストーマーと呼ばれる)は決してネガティブな発言をしてはならない。
またホワイトボードを活用し、アイデアをテンポ良く文字やグラフやスケッチに表現する「記録係」という存在も大切だ(もちろんストーマーが記録係を兼任しても良い)

…思うに、二次創作活動を行っている皆様には、このブレスト、とっても受け入れやすい手法ではないでしょうか。
ぽんたはそもそも複数管理人体制なので、ブレストの真似事のようなことは日常茶飯事に出来るのですが。
今は絵チャットという便利なツールがあるわけで、実は皆さんの多くが実践しているのではないのかなぁとふんでおります。
しっかりした司令塔を一人たてて(分析・整理役)、皆さんも萌え&妄想の為、ブレストやってみませんか?
引き続きガンダムSEEDについてです。
以下はネタバレ・捏造・思い込み多数ありますので、これから種を見るよとか、特定キャラに思い入れがある方は即ブラウザを閉じてお戻り下さいませ〜。
あと、にらはファーストを見たことがない上に、Z、ZZもほとんど記憶に残ってません。致命傷・・・;;
そんななのでトンチンカンなことをぬかしてるかも知れませんが、生温かい目でスルーしていただけたらなぁと思います。(志低いよ・・・)

***

さて、何で今更な種語り、ことは種DのOPとシン・アスカに転んだことに始まります。
それまで私は種を一話たりとも見たことがありませんでした。というか、種にだけは手を出すまいとまで思ってました。食わず嫌いでは、たぶんない・・・
前にとある事情から、まる一日同じドラマCDをエンドレスで聴かされたことがあり・・・さっき知ったんですが、そのドラマCDは「機動戦士ガンダム SEED スーツCD (1) ストライク×キラ・ヤマト」。そう、キラとアスランのほろ甘いメモリー・・・そして、キラの歌声エンドレスエンドレスエンドレス、、、あは。(当時半笑いで作業をするしかなかったわたくし)
私、基本的にドラマCD聴くのは好きなんですが、これには食傷起こすどころではなく。私が種を見ることはこの先ないだろうなと、その時は思ったわけです。その時は。つい何ヶ月か前までは。
それが、シン・アスカ!
たまたま見ていたチャンネルで、TMさんの歌に惹かれうっかり見てしまった種D「PHASE_01」!まさに運命!!(大げさです)
すみません。種Dにおいては、私はシン・アスカ至上主義です!
1話と8、9話しか見てませんが(爆)、どんなに彼が痛い発言をしようと、見せ場もセリフもなくても(号泣)、重度のシスコンでも、あくまでシン・アスカ。番組終了後に「なんで議長までチェックしてるんだー!!!」の彼が愛しゅうてなりません!(力説)
そう、彼に転んだばっかりに(あと一部、議長×カガリにもよろめいたりして←もちろん私の妄想ですが;)、出番のあまりの少なさに涙し、逆に主人公並に出張ってるアスランって一体?!よし、こーなったら種から設定を学習してやる!とたまたまレンタル100円セールも手伝ってまとめ借り。一週間で50話。そして現在に到る、なのです。ふー

で、やっと今回のテーマに入ります(滝汗;)

SEEDで納得できない部分の一つ、ナタルの死の経緯を、自分の中で消化させるために、前回の?と?でSSもどきとして書きました。ナタルの「最後」については、私はあれでよかったと思うのですが、あの時のクルーの逃げ足の早さ(笑)だけはどうにも・・・「あんたら軍人でしょうが!ナタルを手伝えよ〜」と。
こんなつっこみの余地がない演出をお願いしたかった。。。
これに限らず、多くのファンサイトさまで言われているように、種には画面を前に「ええ!?」と思わず声に出して叫んでしまうような、演出や展開が本当に多かったですね。
それから、設定やストーリーの都合に振り回されすぎたたキャラの言動。メインキャラ以外はどうでもいいような扱い。
それぞれが、そのキャラデザインも手伝って魅力的だっただけに、残念です。
全体のバランスがとれてれば、多少の矛盾や大げさな演出はあっていいと思うのです、が・・・ちょおっと、つっこみどころが多過ぎです。削るべきエピソードは削らず、そこはもっとしっかり描いてくれ!というところに限って端折られていたり、謎過ぎる設定(それも矛盾している)を放置とか。
例えば、CP祭と言われる47話後半(←だったですよね?)、もっとあっさり流してよかったんじゃ、と思うのですよ。キラがフレイとあんな重たい関係になってしまったがために、大人組の恋愛も盛り込まんととか、アスランとカガリもそれなりに進展させんととか、そちらのバランスをとったのかもしれないですが・・・個人的好みを言えば、せめてアスカガはもっとゆっくり進展して欲しかったし、後半部分まるまる使ってそんな演出されてもな・・・と興醒めです。
それから、ディアッカの投降後、AAクルーに拘束されてからの言動。ニコルが死んで「かたきは俺が!」と言ってた彼が、いくら敵側とは言え、ミリアリアに向かってあんなセリフを吐くのは、展開のためにしゃべらされている、させられているといった違和感がありました。
違和感と言えば、ウズミ様の死も意味があったのかと思ってしまいます。確かにウズミ様の言葉には目頭も熱くなりました。でも、もっとねばって欲しかった。ねばって、地下にもぐってでも戦争をやめさせるために政治を動かす努力をして欲しかったと思います。
ラクスも同じです。彼女は本国にいてクラインさんをバルトフェルドさんと一緒に支えるべき立場の人でした。
制作側から込められていたのではないかなと思うメッセージのひとつに、「何人かの超人的ヒーローの力だけでは世界は変えられない」というのがあると私は勝手に思っているのですが、主人公たちの選択を間違わせることでそれを訴えかけるにしては、説得力が足りなさ過ぎでしょう。考えすぎ、かな・・・?
ですが、最後まで見て私なりに消化して思ったことは、構成や脚本がぐだぐだでも、腰が砕けるほどの演出が随所にあったりしても、何だかんだ言って50話全部を見せる力のある作品だったのだなぁということです。
それは、音楽の良さや、迫力のある戦闘シーン、キャラ萌えによるところがもちろん大きいと思うのですが、作り込んだ(らしい)という設定自体は確かに魅力があるものでした。
何より今週の週番日誌でこれだけネタになってくれたので、それだけでも見て損はなかったです(笑)
続編で、前作で放置された謎とエピソードが補完され、ナチュラルとコーディの共生のために主人公達がどういう選択をすべきなのか、納得のいく形で語られるのを期待したいと思います。
学習能力のないにら。字数制限に負けてしまったので2分割で失礼します。(というより無駄な前書きなくせば入るんじゃ・・・?というつっこみはなしの方向で・・・せっかく書いたので)

以下、ガンダムSEEDについてのネタバレ・捏造・思い込み、多数です。まだ見ていないという方、特定キャラについて特別な思い入れがあるという方は、即ブラウザを閉じてお戻り下さいませ。

*** *** ***

SSらしきもの(あくまでも「らしき」もの)の内容は、ガンダムSEED(大)問題の49話補完もの。
ナタル→マリューで、はっきりいって自己満足です。基本姿勢はフラマリュ。(←分りやすいな私の趣味;)

読んでしまった後のクレーム等は受け付けませんので、よろしくお願いします〜

*** *** ***

49.2話、続き・・・

何故、一息に殺さない? こんなはずしようもない至近距離で。
ああ、そうか。ふん、随分いい趣味を持ってるなアズラエル。
ふっと笑いを漏らしてしまった私に、ますますアズラエルが激昂し銃を構える。
今度こそ終わりかと思った銃口をずらした彼は、私の足を撃った。
骨が砕け、私は激痛に呻きうずくまる。
「くそ!こんなところでっ!」
正面モニターに映し出されたアークエンジェルに呪詛の言葉を吐き、アズラエルが火器管制パネルに回り込んだ。
パネルを操作し、照準設定画面を呼び出す。
「アズラエル!何を!!」
言葉の方が勝手に口をついて出たが、分っている。
クルーを失った今、ドミニオンが帰還できる可能性は万が一にもない。
アズラエルはアークエンジェルを道連れにするつもりなのだ。
いくら「軍事産業連合理事」という肩書きあったとしても、この男が戦艦の機器類に関しての知識があるとは誤算だったが、しかし、考えてみれば端からこれが目的だったのかもしれない。新型ガンダムとそのパイロットの能力をテストするためだけなら、彼がドミニオンに乗り込む必要などどこにもないのだから。
本来なら本部にいて報告を待ち、指示を出す立場の彼が前線に出てきたのも、臨場感、興奮といったものを求める彼の欲を満たすためだろう。
「僕は勝つんだ!――そうさ、いつだって」
アークエンジェルで言えばザフト兵が吐き捨てる蔑称「足付き」の所以である部分、ローエングリンの砲門を収めたハッチが開く。
光が収束され、間を置かずそれは一気にアークエンジェルに向かって撃ち放たれた。
アークエンジェルの位置、この距離では避けられない。
「きさまぁぁぁ!!!!!」
叫んだその時、今まさに砲火を浴びようとしているブリッジの前に何かが飛び込んだ。
シールドを掲げアークエンジェルを守る影は、損傷を受け宙域に待機していたストライクガンダム。機体の動きには大なり小なりパイロットの癖がでるものだ。戦闘を見て判断した限りでは、パイロットは恐らくフラガ少佐だろう。
不可能を可能に、か…それを口癖にしている男の顔が浮かぶ。
爆発の赤い光。そして、霧散。
衝撃が去った後には、先ほどと変わらない姿でモニターに映るアークエンジェルの姿があった。
「あなたの負けです」
出血のために定まらない視線をアズラエルに向け、静かに言った。
「ぉおおまええぇえええええ!」
喉元を掴まれ、受け身をとることもできないまま操舵席に叩きつけられる。
仕舞っていた銃をまた胸元から取り出すと、アズラエルは私の左肩を撃ち抜いた。
このサディストめ。
あくまでも、嬲り殺しにするつもりらしい。
灼熱の痛みに意識を手放しそうになりながら、早く、と思った。
早く撃て、アークエンジェル。
すまない、これが私の今の最善の選択だ。
いつも彼女の事をアークエンジェルにとっての重荷だと思ってきた。
対立する度に、もともと技術将校だった貴方の指揮官としての程度はそんなものだという言葉を何度飲み込んだだろう。
――分ってる。分ってるわ、ナタル・・・
全てを引き受ける彼女に、甘えていたのは私の方だったのに・・・。
アークエンジェルで彼女の副官としてあった日々は、私にとって得難い経験だった。
そう昔のことでもないのに、懐かしさに涙が溢れそうになる。
貴方となら互いに補っていけただろう。
「撃てーーーー!!!!マリュー・ラミアスーーーー!!!!!」
どうか、この声が彼女に届くように。
ローエングリンの白と赤の渦。視界を焼く閃光。
ありがとう、これで私は最後まで軍人として死んでいける。
貴方に出会えて、貴方の下で働けてよかった。

***

という訳で、次回も種について語り(?)ます、たぶん。。。
今日みそラーメンをすすりながらぼんやり見ていたKFCのCM。
たまたま耳に入ってきた歌詞に、ちょっと衝撃を受けてしまいました。

  くぅ〜りすまぁすは、だぁれにもやってっくるー
  もし、ひ、と、り、ぼぉっち、で、も さびしがらずに〜
  こぉ〜ころにすむ、サンタぁによびかけて〜
  お、さ、な、い、こぉろの、ゆ、め、を おもいだしてごらんよー

ぜひ、場面を想像しながら弾むように楽しげに歌ってみてください・・・

って、歌えるかーーーー!!!!!

これ、めちゃめちゃさびしいクリスマスやんかー
「心に住むサンタ」って、あんた・・・しかも呼びかけるのか〜

ポイントは「クリスマスは誰にでもやって来る♪」ということなんでしょうが、そんなんでは騙されませんって。

切ないですからそれ、むちゃ淋しい図ですからそれ、気付いて竹内まりやさん!!!制作会社のエライひとっっ!!!

***

えー、ちょっと錯乱気味にはじまりました、本日の週番日誌。
「切ない」繋がりで(?)、ガンダムSEEDについて語ってみようというか、突発的にSSらしきものを書いてしまったのでそれを。

以下、ガンダムSEEDについてのネタバレ・捏造・思い込み、多数です。まだ見ていないという方、特定キャラについて特別な思い入れがあるという方は、即ブラウザを閉じてお戻り下さいませ。

*** *** ***

SSらしきもの(あくまでも「らしき」もの)の内容は、ガンダムSEED(大)問題の49話補完もの。
ナタル→マリューで、はっきりいって自己満足です。基本姿勢はフラマリュ。(←分りやすいな私の趣味;)

読んでしまった後のクレーム等は受け付けませんので、よろしくお願いします〜

*** *** ***

49.2話(←すんません。てけとーです;)

銃口がフレイに向き、アズラエルがトリガーを引き絞る。
私はとっさにアズラエルに飛び付いた。
発砲。兆弾がクルーの頭を掠める。
「何をやっている!!」
自殺行為もいいところだ。例えフレイを打ち抜いていたとしても同じこと。ヘタをすれば自らに返っていただろうその弾に思い至らない男だからこそ、子供が癇癪をおこしおもちゃを壁に投げつけるように無造作に「核」を扱えた――そして、もう何をどう言ったとしても、この男を止めることはできないだろう。
「総員退艦しろ!」
命じて、アズラエルに組み付いたまま床を蹴り入り口から距離をとる。完全に士気を失ったクルーたちが次々と出口に向かう中、立ち竦むフレイに私は言った。
「急げ!アークエンジェルへ行けっっ!!」
彼女に微笑み頷きかける。
行け。君が返る場所は、まだ手に届くところにある。
フレイの手を取ったクルーの一人がこちらを振り返るのを、無言で早く行けときつく見据えた。飛び出そうとした彼を、後ろの者が引っ張って押し込む。視線をさ迷わせる下士官の表情も、ドアが閉じて見えなくなる。
それでいい。ぐずぐずしている暇はない。
こうしている間にもアークエンジェルとの距離を縮めるドミニオン。相手がマリューでなければ、とっくに沈められていただろう。
あいかわらず甘いな、艦長。
ついこの間まで、対立する度に口にした彼女の役職名。
マリュー・ラミアス。貴方なら違った結末になったかもしれないな。
冷静で的確な状況判断――確かにそれは戦闘を最小限の「損害」で終らせるのに指揮官に最も必要とされるものだ。
だが、実際に艦を動かし戦っているのは機械ではない、一人ひとりが意思と思惑を持った人間だ。そして、生死が係っている極限状態の中で不測の事態が起こったときに、大きく影響する心理面の安定の土台となるのは艦長だ。指揮官としての能力の高さ、優秀さという材料だけではその土台を作ることは出来ない。
実戦経験の足りない即席のクルーが大半だったから、というのは理由にならない。
ドミニオンが生き残るというフラグを立てるための、互いの信頼関係が築けていなかった責のすべては、艦長である私にある。
気付くのが遅すぎたがな・・・。
揉み合ううち撃たれた脇腹の痛みを堪え、座席横のスイッチを押し込んだ。
出口をシャッターが覆い、これで私もアズラエルもブリッジからの脱出は不可能になった。
「あなたはここで死すべき人だ。私と共に!」
「何だとぉ!!!!」
狂気に爛々と目を光らせたアズラエルが銃を発砲する。
弾は肩を貫通し、私は倒れこんだ。
 なお、現在、実は、ぬりかべは大量のコミック発注を行っているところである。ここまでの量を一括で買うことは、ぬりかべにとっては珍しい。
 すでに物語は完結している。全63巻。
 こんなに大量に買いたくはなかったのだ。しかし、どう検討を加えても、ワンピースやバカボンドのような部分買いは不可能だった。駄作部分はあるが、良質な部分がまんべんなく散らばっており、強いて上げれば完結巻こそが最も駄作という痛恨な話だった。いかにぬりかべでも、全63巻中、62巻まで買って、最終巻だけ買わないという芸当はとても出来なかった。涙を呑んで、いやいや63巻も買うことにしたのだった。
 来週、ヤマダ電機のダイクマに届くことになっている(図書券を金券ショップで買い、ヤマダ電機のポイントがついて約1割お得)
 にらともぞからは、頼むからそれだけはやめてくれ、それだけは読みたくない、そんなもの買えば私たちは絶対に無理矢理読まされることは分かっている、読みたくない絶対読みたくない、頼むから勘弁してくれ、などと散々言われたが、後ろ髪引かれる思いで決心した。きっと、にらともぞも分かってくれる。長い付き合いだ。きっと分かってくれる。
 中古本で求めることも出来たが、何度も読むことになるので、あえて新本で手に入れることにした。この作品から多くを学ぶことによって、SS作品等の底上げに繋がることは間違いないだろう。ハハハハハ。

 物語は五部構成。映画を見るような特殊な視点と、独特のキャラのポーズ、特殊な擬音の使い方で時代を風靡したこともある。
 しかし、この作品の神髄は時代の先駆者となったことである。友情・努力・勝利で天下一武闘会を繰り広げるしかなかった少年ジャンプに、それ以外の方法で面白いと感じることができるのだと言うことを知らしめた作品だった。
 五部構成となっているが、それぞれが独立しており、設定も作風もテーマも異なっている。作者が常に新しいことを求め、戦い続けた歴史がこの作品である。特に三部で生み出された特殊能力は、あらゆる少年マンガに影響を与え、この偉大な発明がなければ、「ハンターハンター」も「遊戯王」もその他多くの作品が存在しえなかったか、その登場が数年は遅れただろう、とぬりかべは思っている。
 作品に対する作者のこだわりは強く、全63巻中生き返った人間は一人もいない(二人だけ、特殊能力によって実は死んでいなかったという場合と生きているように見えて死んでいた人はいる)。
 基本的には、死ねば必ずその人間はそこで終わった。「ドラゴンボール」や「聖闘士星矢」のような、安易な生き返りや死をことさら飾り立てるようなことは一度もこの作者は行わなかった。みんなひっそりと死に、そして舞台から去っていった。
 長年、ジャンプを支えながら、キワモノ的扱いを受け、アニメ化は遅れ、ついにOVAとしてしか、しかも一部しかアニメ化されなかった。太陽の下に立つことは出来ず、月の光に甘んじた無冠の作品。唯一の慰めは、ゲーム化されるや、コアなファン層に支えられ、異例の人気と売り上げを博したことであろう。

 この作品に悲劇があるとするなら、最終5部で作者がその才能を枯渇したかに見えることだ。最終巻がひどいと言うのはそれである。もはや同じ人間が描いたようにはとても思えない。だから、こうも言えるだろう。
 この作品は、一人の天才マンガ家が成長し、そして衰えていった歴史であると。

 その名作の名は…

 荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」(ジャンプ・コミックス)
 全部というわけではないけれど、ぬりかべのマンガの買い方は独特で、必要最低限のものだけを買うことにしている。
 どういうことかというと、例えば部屋の隅の本棚に置かれているワンピースは14巻から18巻までしか買っておらず、「チョッパー編」のみしかない。
 バカボンドも14巻から17巻までの「小次郎幼少編」のみがあるだけだ。そういった買い方をしているマンガは部屋のそこかしこにあり、日々増え続けている。もぞやにらから、読めないからいっそ全部集めろと苦情が出るものの、決して行き当たりばったりでそうしているわけではない。
 お金がもったいないから、部屋のスペースが狭いから、といろいろ言い訳はあるのだが、やはり最大の理由は、それ自体、物語が独立していて楽しめるからだ。

 例えば、ワンピースの「チョッパー編」は、ほとんどドラム王国の話だけで独立しており、そのまま外伝か何かにしても通じそうな仕立てになっている。加えて、ぬりかべが買ったとき、ワンピースはなかだるみが始まっており、「空島編」あたりは特に非道くて、支離滅裂に近い空転状態を呈していた。最近は持ち直してきたものの、読解不可能な駄作部分が余りにも多すぎるため、ワンピースを全てコレクションする気には到底なれなかった。
 しかし、「チョッパー編」は、何度読んでも泣かされてしまうほどの傑作で、完成度も尾田先生にしてはすこぶる高かった。だから、ここだけコレクションしている。おすすめ。
 バカボンドは、基本的にぬりかべが嫌いなタイプの作品なのだけど、立ち読みして読んでいたら、「小次郎幼少編」でガラリと雰囲気が変わって、グイと惹きつけられた。今までの荒かったつくりが、「小次郎幼少編」で途端にきめ細やかになり、非常に多重的なテーマで描かれ始めるのだ。
「武士とは、剣とは、男とはなにか」「老いる者の悲哀と若き者の逞しい成長」「生きる目的、死ぬ目的」 鐘巻自斎という老剣士を中心に、丁寧に織り込むように描かれており、これは買って何度も読まねば完全に理解することはできない、そうまでせねば魂を削って描いたのであろう作者に申し訳ない、という気持ちにさせられた。
 後で聞いたところによると、ここだけ井上先生の独自設定であり、筋書きもほぼオリジナルなのだそうだ。井上先生の入魂の作品は本当に素晴らしいと思う。

 しかし、そういう部分的なコレクションをしているものもあれば、全巻揃えてしまっているものもある。
 あまり巻数が揃ってない状態から買い始めたため、やむなく集まってしまったというものもあるが、大抵は全巻揃えないと物語が仕上がらない仕立てになっているものだ。言い換えれば、完成度が極めて高く面白い作品だ。

 例えば一つ紹介させてもらうと、岩明均の「寄生獣」がある。これは全巻買っている。ハリウッド映画でも技法を真似されたことで話題になった作品だ。(化け物が正体を現すとき顔が割れるという技法)
 この作品はどこをどう切り離せばいいかわからなかった。
 全体を通してテーマの連続性が途絶えることはないし、ストーリーのメリハリも効いている。岩明先生と言う人は、一見して絵がヘタに見え、新人にすら見えてしまうのだが、実はこのような細くて固い絵で完成していたのだった。この一見下手な絵が、人間の狂気を描くと刃物になり、人間の優しさを描くと羽毛になるのだから面白い。
 岩明先生は、動のなかにストップモーションで静を置き、一気に心理面まで斬り込んでくるという技法を好んで用いる。これが岩明先生の最大の持ち味であり、それは読む方の呼吸すら止めてしまうほどのもので、その技法で右に並ぶものはないと思われる。主人公がジャンプで自分の背丈ほどの堤防を乗り越える、そこで絵が止まる、驚いている少女。ただそれだけのシーンが読者を魅了する。爽快感を感じてしまう。そのようなマンガを他にぬりかべは知らない。
 ちなみに岩明先生は、遅筆というか休筆というか。
 作品数自体が少なく、「寄生獣」以外に長編が「七夕の国」ぐらいしかなく、これも久々に出たと思ったら、諸星大二郎先生並に亜空間な作品で、…好みもあるのでしょうがはっきりいって駄目でした。多分、人気が出なかったために構成とかストーリー展開とか変更を余儀なくされて、滅茶苦茶になってしまったのではなかろうか、と思う。
 なお、最近は古代ギリシア・ローマの世界を手がけ、アレキサンダー大王の書記官エウメネスを主人公とした「ヒストリエ」を連載中である。これも凄い作品で、化け物も宇宙人も登場しない現実を舞台としているにも関わらず、殺人と暴力がかなりどぎつく描かれており、かなりの問題作である。二巻を経た後も、いまだアレキサンダーが登場しないという、完全な岩明ペースで物語が展開しているので、途中休筆が発生するにせよ、傑作に発展する可能性が高いと思っている。
 アメリカのブッシュ大統領は過去、アルコール依存症だった。
 その前のクリントン大統領は、覚えているだろうか、アダルトチルドレン(機能不全の家族に生まれ、現在大人になった人)であった。
 アメリカの凄いところは、このような精神的な障害を負った過去のある人間でも、それを克服もしくは本人が自覚しているのであれば、不問に付してしまう、それどころか逆に高く評価してしまうところだ。凄まじいばかりの合理主義であり、日本では考えられない話である。
 だからと言って、日本の文化が劣っているわけでも遅れているわけでもない。日本は日本のやり方で、アメリカはアメリカのやり方で、指揮統率する人間を選んでいるというに過ぎない。どちらが優れているかは、歴史を振り返って見なければ決して分からないだろうし、それすらも時間とともに変化するだろう。

 ごめんなさい。何で小難しい話を始めるのかというと理由があって、また妙な相談をふっかけられたから。相手は、ぬりかべより二つ年下のユキワタシという名の女性。ひょんなことからの知り合いである。
「アメリカって本当に信じられない、そう思いません?」
 ファミレスでそう問われて、ぬりかべもそうだねぇと応じた。
 いくらぬりかべでも、天気の話と同様に横暴なアメリカの話を振られれば、政治不信の話よろしく、簡単に会話のキャッチボールくらい出来る。
 しかし、ユキワタシにとってアメリカの話は天気の話とは違うようで、どうしてもアメリカの行いを許せないということだった。不満というか苦情というか、いろいろと申し立て、容易に他の話題に変わることを許さなかった。
 それどころか――、
「平和団体のツアーに参加して、二年ほど平和活動に参加しようと思うんですよ。さしあたってパレスチナとか行って、可哀想な子供を救おうと思うんですよ」
 ほほうー。
 ぬりかべは、心のなかで闇夜のフクロウのような泣き声をあげた。
「誰かが行かないといけないんですよ。行けば何かが分かると思うんですよ。わたしが日本の代表で行って、帰ってみんなにアメリカやイスラエルのひどさを訴えようと思うんですよ」
 ほぅほぅ。
 なるほど、人によっては意味がないとは思わないが、君に限ってはどうだろう。
 旅費はどうする? お金はあるのか?
「貯金が少し、足りない分は親から借りようと思ってるんですよ」
 この…、たわけ。

 ぬりかべは珈琲のお代わりを頼みながら考えた。ユキワタシにかけてあげるべき言葉など、余りにも多すぎて困ってしまった。
 さしあたってすべきことは、ユキワタシが実は何を求めているのか、気付かせてあげることだろうと思った。
 口に出す言葉の額面どおりに欲望を吐露している人間など滅多にいない。ぬりかべを含め多くの人間は、思考の段階で既に自分を偽っているもの。
「人間だれでも、褒め称えられたいものだよ、ユキワタシ」
 彼女はどこまで自己と他者を相対化できているのだろうか。
「わたしは違うんですよ。そんなものいらないんですよ。恵まれない人たちが救われればそれでいいんです。本当ですよ」
 凡人に過ぎないぬりかべは、申し訳ないことに、そのような自己の内部でしか通用しそうにない言葉が、偽りにしか聞こえない。
「違う…。ユキワタシは、単に名誉が欲しいだけだと思う。誰にも出来ないことを何でもいいから成し遂げて、一発逆転してみんなを見返してやりたいとか、立派な自己実現を果たして見たいとか、そう思っているだけじゃないのかと思ってしまう。それが証拠に、何でわざわざ外国に行かなければならない? 高い旅費を払ってまで、親に迷惑を、心配をかけてまで何で」
 ユキワタシが言葉に詰まったようなので、ぬりかべは一気に畳みかけた。
「恵まれない人は日本のなかにもたくさんいるよ。ボランティアは年中、人を募集しているよ。何で地味にそのような活動をしようと思わないの? ユキワタシ、きみは人を救いたいの? 外国旅行に行きたいの? それとも誰でもいいから他人の不幸を覗いて見たいの?」
 ユキワタシの表情がみるみるうちに岩のように堅くなっていった。
「もう、いいです。相談したわたしが馬鹿でした」
 もはや、ぬりかべがどんなに言葉を鋭くしようとも、もはや彼女の心にナイフを突き立てることは出来なかった。

 ぬりかべは失敗した。
 もし本当にぬりかべが見込んだとおり、ユキワタシが求めるものが名誉とか自己実現であったならば、矛盾であるが、それは決してユキワタシに言ってはいけなかったのだ。
 彼女が見たかったものは別なもの。大きくて立派な自分。小さくて立派でない自分を見させられることは、彼女にとって苦痛であり屈辱以外の何物でもなかったのではないだろうか。

 しかし。
 ぬりかべはどうすれば良かったのだろう。再びユキワタシがやってきて同じ話を繰り返すのならば、どのように話をしてあげれば良いのだろうか。
 さて、ぬりかべもハウルについて書こう。
 まだ見てないけど、頑張って書こう。 

 ぬりかべがハウルに、というか宮崎監督作品に期待していることは、単にアクションシーンの爽快さ、これだ。特に空中戦、空中戦がなければ宮崎監督作品ではないと言っても過言ではない。そう思っている。

 目を瞑れば、思い出す。
 コナンとバラクーダ船長、ジムシーが大立ち回り、巨大爆撃機ギガント、ついに墜落。
 ナウシカでは、ガンシップがコルベットを一発粉砕。その後、ユパ=ミラルダが二刀流で乗り込み、「降伏せよ、コルベットは最早戻らぬ」
 ハクは紙人形に追いかけられビュンビュン逃げ回り、大口開けたトトロは木の葉を巻きながら大空高く飛び立つ――
 これ無くて宮崎監督作品とは言えない!
 ほのぼの悲しいだけが見たいなら高畑監督作品を見ていればいい。ぬりかべは空中戦が見たいんだ――!!

 一応、にらに空中戦はあるかと確認してみた。
 すると驚いたことに、
「ないです」とキッパリ
 そんなわけないだろう、空中戦のない宮崎作品なんて嘘だろ、と涙声で詰め寄ると、にらは考えた素振りを見せて(あくまで素振り)
「はは。あったかも。てゆうか、あったと思います。サホさんも日記帳にそんなこと書いてたような、う〜ん、気がするから」
 お、お前は〜、己の目でハウルを見てきたんではないのか?!(←涙声)
「え、そうですけど、空中戦にもいろいろあるし」
 空中戦は空中戦だろうが! 空中なんだよ。空中で戦うと書いて空中戦だよ、頼むよ。
「わたしの記憶って、ほらどことなく曖昧だし。サホさんの方がしっかりしているし」
 サホさんの日記に書いてあるってこと自体も、お前の記憶ではないのかよ?! まさか勘違いじゃないよな。
「そうか、なるほど」
 なるほどじゃないよ、頼むよ。

しかし、サホさんの日記を読み返してみると確かにあった。
(…宮崎作品ならではの空での物語展開には目を奪われましたしね)
 あった。確かにあった。短いものの、目を奪われたとある! 空での物語展開というのになんとなく一抹の不安を感じるが。まぁいい。これだ、空中戦あるぞ。ぬりかべ、ちょっと安心。

 でもって、ぬりかべはストーリー自体はほとんど興味なし。
 面白ければ儲けものかな、それぐらい。怪獣映画や特撮ヒーローを見に行くのに、感動を求めてもしょうがない、すばらしい怪獣が見られればそれでいいじゃないか、そんな心境。

 正直言うと、もののけ姫の後遺症がまだ抜けてなかったりする。あれは非道かった。終わった後も呆然としてスクリーンを「まさかこれで終わりじゃないよね」と見続けていたぬりかべ。未完成にもほどがあったと思う。しかも、宮崎駿が監督引退さえほのめかしていた作品だったから、騙されたという感覚はさらに残った。
 もうジブリには騙されないぞ、そう思っている。そう思ってみると、別に宮崎作品ではなかったが「耳をすませば」も面白く感じられた。「千と千尋」もかなり面白く感じられた。
 だからきっと、ハウルももの凄く面白く感じられるだろうと思っている。
引き続き、サホ的ハウル語りです。多少のネタバレと、更に主観的視点から呟いてますので、この先へお進みになるには十分ご考慮下さいね。

***

前回は、気楽に楽しめる映画、早い話がハウルに萌え萌えということに集約されていたかと思いますが(笑)思いがけず私がこの映画にやられてしまったのは、前回とは矛盾するようですけど、個人的には、とても考えさせられた内容だったからです。考えるというよりは感傷と呼ぶべきものかもしれませんが。

魔法で90歳の老女にされてしまうヒロイン、ソフィー。その年老いてしまった身体の不自由さが、この映画ではとてもコミカルに描かれていて、館内でもそのたびに笑い声が上がっていましたが、私にはそれが微笑ましくもあり、ちょっとほろっときてしまうものでもあり…。長く寝たきりだった祖母のことを思い出したからです。ソフィーが身体にあちこちガタを感じながらも、その中に例えば「歯だけは丈夫」とか。まだ元気なところに気付いてはささやかな歓びを感じるような、そういう感覚が懐かしくなってしまって(苦笑)

話を戻しまして、若い姿だと自分を抑えてしまうソフィー。けれども、老女の姿になって、身体はあちこち軋むけど、心の枷が取れたように、とってもパワフルで前向きな行動派に変わるんですよね。
原作を読むと、それは日々の生活の中で埋もれてしまった元来の性質が再び表面化したという描写も見られますが、映画では、内向的な少女が、老女の姿に変わったことで18歳の姿では出来なかった遠慮ない思い切った態度を取れるようになったという意味合いが強かったように思います。
その豹変ぶりは人によっては不自然に見えるかと思うのですが、それってあながち誇張だったり、物語を進展させるための書き手側のご都合主義というだけでなく、そう非現実的なことでもないのかなぁ、と…。
老いて、身体の衰えに不都合を感じると、たとえ開き直りやカラ元気でも上向きな気持ちを維持してなきゃやってられないということもあるんじゃないのかな、と。現実的に身体と同じように気分まで塞ぎ込んでしまうと老けるのも一気に加速されてしまいますし。
ソフィーの場合、突然、理不尽にも90歳の身体にされてしまったのですが、それを嘆いたところで魔法が解けるわけでもない。18歳のただの少女の姿での生活は随分と抑制された消極的な生き方でしたけど、90歳の身体で同じように生きるのは、更に制限されたものとなってしまうでしょう。その状態を避け、呪いに立ち向かうには、気力でもって自分を奮い立たせ、とりあえずは前に進み続ける以外に彼女にはなかったのかもなぁ、などと思ったりするのです。

誰でも老いることに悲しみばかりを感じたくはないですし、不自由を感じるからこそ、そこに新たな――厳密には単にそれまで気付きもしなかった――発見や歓びを見出せるのかもしれません。ソフィーは、少々図太いお年寄りを演じているうちに、そこに本来の少女らしさが滲み出し、とても可愛らしくなるのですが、それは老女の姿に変えられ、心身ともに以前よりも積極的に「生きる」ことが彼女にこれまで持てなかった豊かさを与えたのかも。それが「恋する乙女」ともなれば、たとえお肌具合は負けていても、内面からあふれる魅力量が以前と違って当然で(笑)
願わくば、彼女みたいにせめて気持ちだけは最後まで明るく若く持っていられたらなぁ……なんて、まだ若い私が言えるようなことではないかもしれませんけど、ソフィーにはそう思わせてくれるステキな姿が描かれていたのではないかと。

そして、原作が「ヒロインが老女に変えられる」という設定ですけど、映画では、90歳の身体のソフィーが、更に高齢な“おばあちゃん”(※ちょっとネタバレなのでこう表記しておきます)にご飯を食べさせてあげたり、まだ幼いマルクルも“おばあちゃん”をお世話したりとか。
ハウルは、メインはもちろんソフィーにですけど、“おばあちゃん”も含めて増えてしまった家族のために城をリフォーム(?)するんですよね。私の思い違いかもしれないですけど、以前は2階に1つだったトイレが、あの描写だと、新しい城は1階というかリビングのある階にもトイレを付けたという感じ。“おばあちゃん”が犬に心和ませているのも、アニマルセラピーっぽいのかな、とか。
そんな場面の端々に原作以上に高齢者と住む家族の在り方のようなものを感じたり。
ハウルの弟子・マルクルも、原作では実はもっと大きな少年なんですよね。幼い子供に変更したことは、短い時間、少ない登場人物の中で、よりハウルとの差異をつけるにもベストだったかと思います。小さな子供の観客にも、その方が支持しやすいキャラクターでしょうし、そうすることで高齢化社会だけでなく、核家族化、少子化も進む今のこの社会のひとつの理想みたいなものも描かれたように感じたり。
たとえ血が繋がらなくても、世代も超え、互いに支え合いながら暮らせる生活――それは、それらの問題の抜本的解決が図れない今の現状ならではのユートピアかもしれません。そういう意味では、姿を変えられるとか、魔法使いとのロマンスの行方より、この動く城の家族構成の方がよっぽど“ファンタジー”なのかも…。

と、まぁ、この私が珍しくそんなことを思っても、とっても的外れな見解という可能性がかなり高そうで(苦笑)この辺は全くアテにはなりませんが、そこはあくまでもサホの感想ということでご容赦下さいませ;

そんなこんなで見終わってみると、この映画は「生きる楽しさ、愛する歓び」という宣伝どおりの印象。戦時下が舞台になっている割にはえらくその描写は曖昧なのも、主人公ソフィーが普遍的な市民だからかもしれません。ハウルという強大な魔力の持ち主の傍にいることで、少しだけその渦中に近付いてしまいますが、魔法で姿を変えられている以外は本当にただの少女に過ぎないんですよね。前作ほどメッセージ色も強くなく、娯楽性重視の物語に、現代社会への理想と現実と皮肉とが、ごく普通の少女の目線で語られた世界にやんわり織り込まれていたように思います。
欲を言えば、もっと丁寧に作り込んでほしかったという思いもありますが、扱われているのは老化や戦争。その重みや暗さを浮き彫りにすることより、その中にどれだけ明るい希望の種を観客の心に蒔けるか、ということの方が重要なのかもしれません。
それに思えば2時間ほどの上映時間に抑えられているこの映画って、より幅広い年齢層に優しい作りになっているような気もしますしね。最近、かなり長時間の作品があって、それはそれで見応えもあるんですけど、その間、席に拘束されるのってちょっと苦痛ですしねぇ。私が行った映画館も椅子の座り心地があまり宜しくないところでなので、実際これくらいの時間で助かりましたし(苦笑)小さなお子さんからご年配の方、歳末の忙しい時期の社会人の方にとっても、これくらいの上演時間は見やすいかと。
そういえば、この映画、11月下旬公開に延期されたわけですけど、晩秋から冬にかけての今の時期に見るのはちょうどいい感じかも。物思いに耽るには最適な季節ですし、人生の実りをしっとり感じてみるとか。冬は冬で、イベントも重なるロマンチックな季節ですしね。

と、何だかベタ誉めのようですが、酷評される理由も納得で。けれども、それを超えて、希薄すぎた期待感、私の好みのキャラや物語展開、今の私(それもちょうどその祖母の命日直前だったので)だからこそ、きっとここまで胸に響く作品に思えたのでしょう。なので、相当甘い採点になっていることと思います(笑)
そんなこんなで、この映画、サホにとっては、あんな動機で劇場に行ったのが申し訳ないくらい、激しく萌え走りつつも、ちょっぴり社会的なことまで考えさせられる大満足の作品でした。ええ、予告以外は本当に……。
先週、公開して初めてのレディースデーに『ハウルの動く城』を観てきました。ネタは被りますけど、もぞねーさんのれびゅーに倣い、サホ的ハウルでも語ってみようかなと。但し、日頃、感覚だけで、しかもそれを擬音語・擬態語で叫ぶくらいのサホですので、当然のことながらレビューなんて大層なものではないのですが。
と、いうことで、皆様、これより先はちょっぴりのネタバレと、かなり私の独断と偏見が入り混じると思われますので、遠慮なく「回れ右」なさって下さいませ。

***

今となっては実に「ごめんなさい」なことでしたけれど、わたくし、ハウルの配役が決まった時、これはもう英語吹替え日本語字幕版でも上映されない限り、映画館まで行くのは止そうと思ってまして。と、いうか、正直、レンタルで見ようどころか、TV放映すらも見ないかも、というくらい、それはもう、にらねーさんの当初の予想レベルなんて目じゃない低評価であったことと思います。

私は原作も未読で、粗すぎるあらすじしか知らなかったのですが、そこへ「中身が薄っぺらい」とか辛口コメントばかり聞いてしまい、最初は配役の不満だけでしたけど、これでもう決定的に冷めてしまってたのですね。
そもそも、私、基本、ジブリ作品は好きなんですけど『もののけ姫』の時はとーっても期待して――と、いうより、期待しすぎて、映画館で「んん〜?」となった教訓を踏まえ、期待せず、だいぶ後からレンタルビデオで見た『千と千尋の神隠し』が、アカデミー賞も獲ったくらい評判は高いですけど、私的にはもののけ以上に苦手かなぁ、というものでして…。
これは本当に好みの差でしょう。あくまで「ジブリ作品として考えるなら」という条件の中でのごくごく私好みな評価であり、あの色使いとか、宮崎作品ならではの空での物語展開には目を奪われましたしね。
それに、もしかしたら『もののけ姫』も『千と千尋』も、その物語の真髄に気付いてないだけかもしれません。と、いうのも、それをきちんと理解しようとか味わおうというよりは「これなら、ナウシカ完全版を作ってほしかったなぁ…」という気持ちが勝ってしまうので(苦笑)
と、いうことで、今のところ、私の中では映画版の方も好きですけどナウシカ漫画版は別格、それ以外なら、肩肘張らずに楽しめる以前のような作風が好きだなぁと。これはあくまでも私の好みですけど、お好きな方、御気を悪くなさったら申し訳ありません;

で、前置きがとっても長くなりましたが。
そんなサホが、なぜ、レディースデーとはいえ、それもこんなに早い時期に劇場へと足を運んだのか申しますと、ジブリの綺麗絵を堪能、声は話の種に。一番の目玉は予告よね♪ 1000円なら、それも、ま、いっか――と、いう理由からでした。
そう、スターウォーズ新作予告編がハウル上演前に流されるとウワサを聞き、そこに妙に勢いづいてしまったのです。
こうして、本編よりも予告見たさに公開第1週目に行くほど気合を入れたものの、お目当ての予告、待てども待てども出てくるのは、やたら邦画ばかり。洋画も数作ありましたが、ついには現れることなく……な、なんてこと! あれはガセネタ――!?

かなり打ちひしがれ、呆然となりながら上映を迎えたサホ。その瞬間、白目青筋になっただなんてことは、当然、生まれてこの方ありませんでしたとも。。。

――ところがです。
開幕で灰になったも同然の私の耳には、ソフィーの第一声からして、そう違和感を感じることもなく響いてくれたんですよね。物語全般通して私は特に悪印象は受けませんでした。そこはベテラン女優さんの演技力というのか底力を見た(というか聞いた?感じた?)という気分。
で、キムタク声も意外な評判どおり(?)良くて。と、いうか、こ、これは…っ!!! ←衝撃のあまりまたも白目。
キムタクにときめいたのは、遠すぎる昔「あすなろ白書」の“取手君”以来かも(笑)

大変失礼ながら、本っ当に最低の更に最低レベルを想定していたサホですが、それが幸いしたのか、当初の予想に反して見事クリティカルヒット☆ 映画を見終わって原作本も買いに走ってました(笑)
何がそこまで良かったかというと、まずキャラが(外見も含めて)私好みに描かれていたことでしょう。
特にハウルvvv何コレ、めちゃくちゃ好みなんですけどーーーっ。
未だかつて宮崎作品の男性キャラにここまでやられたことはなかったです。いえ、もう、ここまで激しく一目惚れというのか一目萌えしたのも久々かもしれません。あの性格であの外見って、サホ的には反則すぎるほど悩殺キャラなんですよね(笑)
こうして、わたくし、最も危惧していたはずのハウルに一瞬にして心臓を食べられ
た模様。
ヒロインのソフィーも、見た目はしわの刻まれたおばあちゃん姿の方が冒頭の18歳の姿よりもずっとイキイキとしていて、ステキなヒロインなんですよね。18の時の姿も可愛いですけど。
火の悪魔カルシファーのコミカルなキャラ、マルクル少年のいたいけな姿や年寄り口調も可愛かったですし。他の登場人物もも皆、私にはそれぞれに好感の持てるキャラクターに仕上がっていた上に、あんなに心配だった声も、最近のジブリ作品の中では一番、私の耳にすんなり馴染んでくれたような(笑)

内容の方は、確かに「?」となったところもところどころありましたけど、ここは原作から削除された部分なんだろうなとさっくり無視。ソフィーと母親との関係にはちょっと戸惑いましたが、それ以外は適当な妄想でカバー出来た気がします。その分、捏造された世界になっているかもしれませんが(笑)
これは原作未読だからこそ、細かい部分は深く追究せずにいられたのかもしれませんね。感覚のみで画面に感情移入して見ていると、あのワルツ風な曲をBGMにしたソフィーとハウルのメロドラマは、確かに私にはうるっと来たものです(笑)
これはジブリ作品の中で一番、切な萌えを感じる恋愛模様だったでしょうか。映画を見てから、あの主題歌(上記の曲ではなく、倍賞千恵子が歌ってる曲)を聞くと、これまた胸に迫るものがあり(笑)

原作を読んでみると削除されてしまったのが惜しい部分も多々ありましたが、ヨーロッパ風ファンタジー世界観が、宮崎作品としてすっかり再構築されているんですよね。
ゆにぽんにお越しの方には、おそらく、あまりいらっしゃらないかと思いますが、サホの身近には『ロード・オブ・ザ・リング』のような王道ファンタジーは鬼門という人が数人いまして。指輪物語系ファンタジーの世界観やお約束には馴染めないけど、例えば、ジブリなら『ラピュタ』や『魔女の宅急便』のようなファンタジーなら楽しめるという方には、原作より映画の方がオススメかもしれません。
映画は街並みこそヨーロッパ風ですけど、使う魔法も無国籍風(?)で、原作ほど「魔法世界」という印象もなく、より現実社会を反映した世界に描かれてますし。
登場人物数も大幅に抑えられコンパクトになっている辺りにも、原作ほど客層を選ばない、幅広い間口を持った作品に仕上がっているような気がします。
もちろん、原作の世界観がお好きな方、舞台設定とかキャラの行動に論理的説明を求めたいというような方には、いろいろ粗が目立つ作品かもしれませんが、私には、これは久々に深く考えずに、特に女性が気軽に楽しめそうな宮崎映画という印象です。
折りしも世間の流れも純愛メロドラマブーム。メロドラマって理屈で考えては楽しめない世界だったりしますしね。補完作業するなら、世界観にではなく、キャラにのみ掘り下げるが吉でしょうか。萌えろと言うわけではありませんが(笑)

……と、すっかり結論っぽい語り口になってますが、あ、あれ; 肝心の本題に辿り着けてない…;
というわけで、続きはまた次回ということで……
にらの家に漫画本が溢れかえってしまっていて、にらママの怒りの鉄槌がそろそろ下される5秒前くらいらしいです。
ということで、我が家には少しずつにらの漫画本が横流しされてきます。
というわけで今まで読んだことのない作品をぬりかべと二人で読んでいるわけですが。

先日持って来られたのは『美女が野獣』(マツモトトモ著 白泉社)――このサイトに訪問される方の多くが既読ではないかなぁと勝手に思っている作品です。
レビューではないので詳しい内容は割愛しますが(よく言うよ)女子寮に住むエイミと寮友と男子寮に住むイケメン連中の日常を描いた作品です。
万能で孤高で色気ある「わにちん」とエイミの不可思議な危ない関係が気になるところ。
でも私の感想は「わにちん」よりは「しもーぬ」が好きだな、ということでした。え?
何となく前評判だけを聞いていたときは「わにちん」を好きになるだろうと思っていたのですが、どうやら私はけなげな少年に萌えを感じるお年頃になってしまったようですね。あは。
好きな人と膝が触れあうだけでもドキドキしてしまう「しもーぬ」に入れあげてしまう心は、数年前なら全く持ち合わせてはいなかったですものね。
で。
我が家にやってきたぬりかべが目ざとく本を見つけてしまったんですね。
「これって面白いの?」
私は面白かったけど、多分ぬりかべには絶対分からないんじゃないのかな。
「何で絶対とかって言うかなぁ。俺だって斜に構えて読んでる訳じゃないんだぞ☆」
――それから15分後の第一声。
「なぁ、美女が野獣って誰のこと?悪いがヒロインは美女じゃないぞ」
…この件について君と議論するつもりはないから、その質問に対してはスルーさせてもらいます。
私の回答がよほど気に入らなかったのか、先日にらが来たときに再び話題を蒸し返すぬりかべ。
「これは萌え漫画なんだよなぁ?にらはどこに萌えたんだ?」
「えー…ぬりかべと私じゃ萌えポイントが違うから言いたくない」
「俺に自分の選んだ作品の良さを分からせてやりたいとは思わないのかい?」
「た、多分ぬりかべ…いえ、男性と女性では脳の造りが違うので、萌えポイントも全然違って分かり合えないと思うんですよね」
さすがに「ぬりかべ、あなたと私は永遠に分かり合えないのよ」とは言い難かったのか、あやふやな科学的根拠を駆使してまで議論を避けようとするにら。
しかし、いつものように浅はかな作戦では彼を撤退させることは出来ず。
「じゃあ分かるまで読むから♪」
「えぇー?!」
そして彼は全巻読み終えて「わからん…」とただ一言だけ曰いました。
それからが大変で、何巻のどのページにどのような萌えを感じたかという発表を二人でさせられるという不毛の時間を過ごす羽目に…
結構長い時間を費やしたあと、ぬりかべは「よし、会得した♪」と言い放ちました。

それから30分後でしょうか。
新コンテンツ立ち上げの話の途中のこと。
「ぬりかべは私の書いたSSはイマイチな出来映えだと思ってるんですか?」とにらが質問したんですね。
「いや、そんなことはないと思ってるよ」
平然と言い放ちながら彼女の方に向き直って答えるぬりかべ。
「そういう質問が出るということは、にら自身が自分の作品の出来映えに疑問を持っているということなのじゃないのか?実際、自分ではどう思ってる?」
「………」
自分のかつての作品を胸張って「完璧♪」と思える人は、まぁあまりいませんよね。
言葉に詰まるにらに微笑みながら彼は続けます。
「じゃあ『私の作品って今一つなんですよね』って言ってごらんよ」
「………」
「俺はこう言うけどな――そんなことない、ってね」
思わず頭が真っ白になるにらもぞ。
私らの知っているぬりかべは、自虐的なことを言った途端にその傷口を広げるような男だったはず…
「はぁ?」
からかわれたんだ、という結論に行きついたのか険悪な空気を醸し出すにら。
しかし彼の発言は予想しないものでした。
「な、今の発言、わにちんをイメージして言ってみたんだけど萌えた?」
絶句するにらもぞ。
「こういうことサラっと言える男に萌えるんだよな?」
「「あはははは…た、確かにわにちんっぽいですな」」

果たして本当に萌えを会得したのかどうかは分かりませんが、その日は大いに笑わせて頂きました。
オチてませんが、この辺で…
『ハウルの動く城』――今年は日本が誇る世界的アニメ監督三人全員が映画を作ったという画期的な一年だったそうですね。
トリを飾るのは宮崎駿監督…もう、説明出来ないくらい知れわたっているクリエイターかと思います。
休日の朝にこの作品を見に行ったにらが、2時間かけて我が家にやってきて開口一番ハウルの感想を述べました。
「えーとね、すっごく面白かったよ♪思ったよりはずっと良かった、かな」

以下の文章はにらの話とぬりかべの話とサイト上に溢れている酷評とサイト上に溢れつつある「案外いいじゃん」という意見を元に、もぞが勝手に想定した『ハウルの動く城』の捏造レビューである。
この作品をこよなく愛している方、どんな些細なネタバレも見たくない方、事実と違うことを吹聴する人間を許せない方は迷わず「まわれ右」なのよ☆

***

この話は次の登場人物によって構成されている。

もぞ:無趣味無教養の名をほしいままにしている語り部。映画館に映画を見に行く、という文化が存在しないので当然話題作の多くを見逃している。にらとぬりかべがいなければDVDやビデオさえも見ないという駄目っぷりを発揮中。「ハウルってなぁに?」状態ですよ、もちろん。
にら:マンガ・ゲームに関してはすぐに触手を動かしてしまう自称「壊れ腐女子」。社会人として給料を貰っている為に大人買いをしてしまい逆に貧乏になっているという萌え人生。今回、ハウルを見に行って語り部にネタを提供した貴重な人物。原作も読了。
ぬりかべ:豊富な読書量と年間100本は超えると言われる映像作品鑑賞によって批評家のようになってしまった人。もはや純粋に作品を楽しむことは出来ないなんて可哀想な人だこと(もぞの負け惜しみ)。にらの話を聞いてハウルを見に行こうかなと思っている。

***

『ハウルの動く城』れびゅーふぉーもぞ
 時代は昔(え?)、戦争のある世界。
 少女ソフィーはどういうわけだか魔法によって90代の老女にされる。
 老女ソフィーは愛する我が家を逃げ出して、色々あって動く城に住むイケメン魔法使いハウルに助けを求め、何故かその願いは受け入れられる。
 ソフィの来訪により、個人主義的だった動く城の住人達は「家族愛」に目覚める。
 ハウルはどうやら「家族愛」に飢えた本当は寂しい青年だったので、家庭的で明るいソフィーに惹かれている。
 一方。
 明確な理由はわからないものの、ハウルは戦争のない平和な世界を望んでいて、その為に尽力していた。
 そして物語終盤、それまで熱にうかされたように戦争をしていた連中があっさりと戦いから手を引く。
 おまけにソフィーは魔法も解けて…そう、めでたしめでたし、なのよ☆

 ポイントの一つは「思ったよりも」「案外」「最低ランクを覚悟してたけど」とても良い作品だったということのようで。
 キムタクの声はむしろ「キムタク?」という感じで全然気にならないそうです。ソフィーの声もにらとしてはほとんど気にならない御様子。
 でも批評家の方が言ってたのは「何で声優使わないの?」っていうことだよね。特に「寅さん」世代の方々は彼女の声を聞く度に「さくらー」と叫びたくなる欲求があって…なんだかなぁって言ってたよ?
「えー、だって私、寅さん見ないし、わかんない」
 …ま、そうでしょうね、そう言われれば私もわかんないです。
「映像は本当に綺麗だったしね」
 うん。
「音楽も素敵だったしね…ワルツ調で、正直アレ(曲)だけで泣いてる人がいると思うな」
 久石さんの音楽って結構くるもんな。
「それにハウルが美形なのよ〜!!!」
 造形が美しすぎるというのは深みがないってことにも繋がるらしいけど?
「いや、ほんと、かっこいいから」
 …聞いてないな…おのれ、にら。
 原作ももちろんチェック済みの彼女にとって、この映画は言いたいこともあるけれどナイスな作品だった模様。ご機嫌な彼女にぬりかべの質問が飛んできます。
「でもさ、原作読んだ人の多くが結構こうるさい批評をしてるよな。お前ほんとに原作読んだのか?」
「読んだもん。でも良かったもん…ていうか、もしかして私って甘いのかなぁ…」
 そういえば原作を読んでない人にも分かるのかなぁっていう不安があるよね。
「そういわれると…確かに不安な所があるようなないような…」
 まぁ人は上手いこと脳内補完しながら鑑賞するものではあるけどさ。
「そういえば戦争の理由とか分かりづらいかもしれない」
「…ふぅん、でも古来から人間が戦う理由なんて一つじゃないからな。例えば聖闘士星矢、あれは何故戦うんだ?」
「それは…姉さんを捜すためでしょ?」
「ふっ、それは理由の一つに過ぎないだろう?ならば一輝は何故戦った?」
「お、弟のため…」
「瞬は何故戦った?」
「「兄のため(爆笑)」」
 もしもーし、お二人さん?
「そうか、人は愛のために戦うんだな(ニヤリ)」
「な、なるほどー。じゃハウルも愛のためだったのかぁ(笑)」
 そうなんだ…じゃあわりと分かりやすい話なんだね。
「まぁ待て。ところでお前はもののけ姫ってどう思った?」
「好きな話です。良い作品だと思いますよ?結論もあれでいいと…」
「俺、もののけ姫のラストはご都合的な感じで駄目だったぞ」
 確かに拍子抜けしたよね、もののけ姫のラスト。
「…だったらハウルも駄目ですね。ハッピーエンドだもの」
「何だよ、駄目って」
「映画には原作を超えるような不幸表現が無いんです。魔法もサクッと解けちゃう感じです。もののけ姫で駄目ならハウルは駄目でしょうね」
「なーにーをー!?よし、もぞ見に行くぞハウル」
 えっと、心に余裕のない時に、ヨコシマな考えの方と一緒に映画は見に行きたくないですよぅ…だって見終わったら徹底討論会がセッティングされちゃうんでしょー?
「ぬりかべには絶対分からないと思いますけどね」
「なーんーだーとー!!!」
「あ、でも本当にハウルが格好いいから、もう凄いから♪」
 そうですか…そうですね、見に行かねばならんでしょうな…見てもないのにここまで熱くなれる作品が駄作のハズがないですよ。
 というか知らないのに語るのは非常に恥ずかしい上にとっても痛い人みたいなので、はやく私も一人前の教養を身に付けようと思います。

***

ハウルレビューというよりは、私たちの日常会話の垂れ流しのような気もしますが…どうやら私にも楽しめそうな話だということがよく分かりました。
どうやらサホも見に行ったようで、彼女の意見もにらと同じベクトル…☆
この二人がはまったのなら、私も多分メロメロになるんだろーな♪
今からちょっと楽しみ&見に行く暇が作れるのかちょい不安な私なのでした。
夜中に受験勉強してる最中に急に部屋の模様替えをしたくなる高校生的モチベーションの今日この頃。

前からちょこっと気になってはいたものの最近まで買うつもりがなかったゲームが急にやりたくなってしまい、中古ソフトのお店を回って手に入れました。

タイトルは「召しませ浪漫茶房」。
そんな複雑な愛憎模様の中(笑)、今回はゲームレビューを垂れ流したい所存です。

お店の経営と恋愛を一緒に楽しめる、和菓子屋さん経営恋愛シミュレーションゲーム。好評を博したD3パブリシャーの『きまぐれストロベリーカフェ』のスタッフが制作を担当し、今作も乙女心をくすぐる仕掛けが満載だ。(Amazon.co.jp商品紹介より)

そして、声優人は以下。

森久保 祥太郎(道明寺 暁尚 ドウミョウジ アキヒサ)
文武両道、堅物、天然、無口?

置鮎 龍太郎(柏 架槻 カシワ カヅキ)
頑固、偏屈、奥手・・・

岡野 浩介(五家宝 麟 ゴカホウ リン)
年下攻(笑)、浮世離れ、術師

矢薙 直樹(道明寺 月夜 ドウミョウジ ツキヤ)
金髪、優しげ、控えめ

竹若 拓磨(葛生 瑣已 クズウ サイ)
遊び人、兄属性、挙動不審

キャラ名も書きましたが、難しいですね〜。今はじめてそういう名前だったのか;と分ったキャラもいて、ごめんなさい。
思わずフリガナつけてしまったです。
名字がお菓子の名前にちなんでます。
キーワード的コメントもつけてみました。

現在攻略済みは「葛生のお兄さん」のみです。

やわらかい色味の少女マンガ的絵柄で親しみやすいですが、難易度は高めです。
パッケージを見て舞台は明治?と思っていたのですが、フタを開けてみたら江戸風異世界で、王様が国を治めているという・・・
服装は銀魂チックです。

主人公ちゃんがかわいいですね。
物怖じしない性格で、ツッコミ役。デフォの名前(「天海 千歳」)だと相手が恋人時に名前で呼んでくれます。
会話は掛け合い漫才的でノリがよいです。
一つ一つのイベントのテキストの量が比較的多めで、それがフルボイス仕様なので、お得感はあるかなと思います。
恋愛関連イベントはあっさりしてますが。

もう一つのシステム、甘味処の経営ですが、各パラメータをバランスよくUPさせて、季節に合わせたメンテとお菓子の素材集めにせいをだせば、そう難しくなく売り上げを上げることができます。

ただ、肝心のお菓子作りが、へぼい素材しか集められないからなのか、あまりおいしそうなものをつくれないのがストレスでした。材料と工程の因果関係も慣れるまでが???だらけで。
木型を買い忘れて、和菓子系の高級菓子が作れなかったのがさらに痛かった。
何が目的ってそれが目的だったのに。。。

そうそう、抹茶ものはゲーム画面で見ても和みますねぇ。あー食べたい。

攻略した「葛生のお兄さん」は、たまに女言葉が混じるノリの大変よろしい遊び人でさぼり魔の研ぎ屋さん。
声も大変よろしいです。フルボイス仕様バンザイ!

次回は年下攻(笑)(外見込みで簡単にいうと毒舌のハク)「麟くん」を追いかけてみようかと。

もう本当に攻略サイトさまさまです。

12月のゲームラッシュに向けてさくさく攻略したいと思います。
学生の頃に一人暮らしをしていた時、地震があった。
大きなものではない。少々いつもより揺れたかなという程度で、当然私も特にあわてるでもなく、その時はテレビを見ていたと思う。

ところが、これに驚いたのが隣の県にいた私の父親。

その晩、電話がかかってきた。

地震を心配した内容で、「その」言葉が出るまでは私も普通にめんどくさげ(笑)に対応していたのだが・・・

「揺れたけど大丈夫か?」
「うん」
「気をつけなさいよ」
「・・・うん(災害には気をつけようがないよねえ;)」

「揺れるからって、驚きすぎて三階から飛び降りるなよ」

「・・・・」

・・・・確かに、アパートの三階に住んではいた。

だからって・・・・

「飛び降りる訳ないでしょーがっっ!!!!」

私の悲痛な叫びは、部屋に遊びに来ていた友達連の心を見事なまでに鷲掴み(遠い目)。
その後、内容を話して大いに笑われたのは言うまでもないでしょう。ははは;;

父が何を思って言ったかは当然分る。
ひたすらに心配性なのだ。

そして、それは二十歳を曲がりきった今の私に対しても変わらなく・・・。いや、(親が)年を取っただけに余計に言葉が多くなったかな?

きっとよく言うように、親にとっては、娘はいつまでも娘で。いつまでも頼りない存在なんだろう。

そして、私もそう見せないようにする努力を怠っていたのだと思う。

いつまでも娘離れが出来ない親だよ。と、クサッていた私だが、結局私も親離れができていないのだ。

そして、

優しすぎる言葉を浴びせられ続けてきた反動というのは言い訳だろうが、私から優しい言葉を返せたことはあまりない。

それは、今現在も続いている。

長年培われてきた関係を変えるのは難しく、年をとるなかで変わっていければと時々努力をしてみる。

どうしてもうっとおしいと思ってしまいがちな、その言葉を発した人の心を慮ってみる。

今日も生返事で応える変わらない日々ではあるが、そこで見えてきたものは、気付くのがいつでも遅い私にとっての最近の大きな収穫だ。

貰う言葉は、私が一番見習うべき、尊敬できる心だった。
 ちょっと飛躍した話を信じろという人に会った。
 会ってしまった。
 それは、アメザラシ(当然、仮名)さんという女性の人で、彼女が言うには――

 「実は、わたしには不思議な力があるんです。未来が分かるんです」

 それを、ぬりかべに信じろと。
 正直、持て余した。
 今度はこれか、と。

 でもまぁ。
 この類の話を持ち込まれるのは枚挙に暇のない話で、みんなもそれなりに経験があるのではないだろうか。

「わたしには、生前の記憶が残ってるんです」とか、
「ここには自縛霊がいます」とか、
「UFO呼べます」とか――
 高校とか中学で、修学旅行中に言い出す奴がクラスに一人くらいいなかっただろうか。

 本当にそんなことがあったら面白いだろうなぁとぬりかべも思う。
 だから、その程度には信じている。また、それを心底信じ切っている人間というのは確かにたくさんいるわけだから、信じたいという気持ちがこの世に溢れんばかりに存在するというのは忘れてはならないことだと常に思っている。だけど。
 ――彼らを信用するわけにはいかない。
 ぬりかべはそう思っている。彼らを信じて、みんなの運命の選択を委ねたりすることは、なるべく避けなければならないと思っている。

 例え話をしよう。
 金持ちがいるとする。この金持ちは、すさまじい金持ちであると同時に、世界に二人といないくらいのケチで、かつ銀行すら信用しないほどの人嫌いである。すなわち、金持ちの金は金庫に死蔵されることになる。人のためにも使われず、自分のためにも使われず、かくして死に金となる。
 そうなったとき、この金は無いも同然のこととなるのではないか。
 金は使わなければ意味がないのだから。
 ――だから
 上記のことも同じことが言える。
 未来が見えるとかなんとか、その力が真実かどうかなんて議論しても意味がない。それは金持ちが本当に金持ちかどうかを議論することと同じことで、金庫の中身を確認するまで分からないことだ。得てして、上記の彼らの特殊な力は、日が悪いとかなんとか、証明することが困難であるという宿命を背負ってしまっていることが多い。いや、ほんとに。

 だから、重要視しなければならないのは、彼らが金をどのように使うのかである。
 ――すなわち、その特殊な力というものをどのように使っているかということだ。
 修学旅行で霊感があると言っていた人を思い出して欲しい。彼らはそれら特殊な力を神妙そうに語りながら、何を為しただろうか。
 ただ、自分の周りにたくさんの人を群れさせたかっただけ、自分が個性的であることを認めさせたかっただけ、…であれば、ぬりかべはそのような人を信用するわけにはいかなかった。
 しかし、霊感があるという彼が、日頃は目立たない内気そうな友人の手をとって、
「君には強い守護霊がついているよ。ずっと君を見守っているんだ。きっと、亡くなったお祖母ちゃんじゃないかな」
 なんてことを言って、信じるか信じないかはともかくとして、内気な友人を励ますような言動をとったなら、――ぬりかべはその霊感があるという人間を信用するだろう。彼が本当に力を持っているかどうかなんて関係ない。
 目の前の誰かを救いたいという気持ち、それが見えたなら、ぬりかべは信用するしかないのだ。

 霊能力があるとかUFOが見えるとか、それが真実かどうかなんて関係ないのだ。この世に生きている人間のほとんどが己を強く大きく見せようと腐心しているなかで、彼らの持っている能力だけを偽物だと指摘しても意味がないとぬりかべは考える。
 あらゆる備え持った力を、現実世界でどう使っているのか、それを見るべきであると思う。

 さて。
 翻って。
 目の前にいる、アメザラシである。
 延々と小一時間、彼女が見える未来について、熱くぬりかべに語ってくれた。くれました。

 どうしてだろうか?。
 アメザラシの話のなかでは、彼女は誰にも信用されず、報われず、せっかく生まれ持った力を誰も評価してくれない、ということになっている。
 そんなはずはあるわけないのに。
 だから、ぬりかべは一言だけ聞いた。
「その力が自由に使えたなら、何を救いたいの?」
 アメザラシはちょっと考えてから言った。
「世界の全ての人!」
 申し訳ないことに、ぬりかべには、世界の全ての人がアメザラシだけを見つめなければならない、恐れ敬わなければならない、というふうに聞こえてしまった。なにより、まず救われなければならない者は、アメザラシ自身だと聞こえてしまった。
 思わず脱力。
 そして沈没。
 人だったら悩みくらいあるわけで。
 いろいろな機会で、他人の悩みを聞かされることもあるわけで。
 聞かされてしまうと、ぬりかべはそこで大抵、持て余してしまう。

 悩みというのがほぼネタ化していれば、こっちとしても応じやすい。軽口などたたいてゲラゲラ言いながら、みんなで盛り上がってしまえばいいからだ。
 しかし、やけに神妙にされてしまって、こちらの言うことを目を輝かせて聞かれなどすると、不安になってくるのはぬりかべの方だったりする。
(こんなんでいいのかなぁ)
 そんなことを考えながら、適当にみつくろった見栄えの良い言葉を仰々しく並べてごまかしている。後は、悩みを持つ人が脳内補完をしてくれればそれでいい。ぬりかべが何もしなくても、パズルを組むようにつじつまを合わせて、やがて相手はまとめに入ってくれる。納得してくれる。悩みを持つ人は、大抵答えを心の内に持っているものだ。

 しかしまぁ。
 ごくまれに、いやかなり多いのだけれど、困ったことに。
 人によっては、悩みを話しているときこそ、至上の喜びだという人達がいたりする。
 とにかく私の悩みを聞いてくれ、回答などしなくていいから――いやぁ
 これは本当に困ってしまう。

 彼らの悩みは、それなりに個性的ではあるのだ。
 だけど、ぬりかべから見たら、くだらないものに見えることが多い。どうしてもそう見えてしまう。見えるものはしょうがない、とてもごめんなさい。
 だから当然、ぬりかべの興味や好奇心が湧くこともなくて、かくしてぬりかべは疲れてしまう。
 ぬりかべの心が砂漠の状態で、たっぷり一時間は聞かされると、後にはぬりかべの干物が残る。これが、腰や肩に重くのしかかる疲れだったりする。いや本当に。

「悩みを話せて、少しはすっきりした。聞いてくれてありがとう」
 そんなことを疲労の極致で言われたりする。そこで薄ら笑いを浮かべられるぬりかべはとても偉い。
 その人の姿が消えて、ささやかに気力が回復してきたら、残った力を振り絞り、思い出して考えてみる。
 なんかやっぱり、ちょっと違うな、と考えが至る。

 あの人は、さっきの人は…、とるに足らない悩みをことさら深刻にさせて、自分が気持ちよくなりたいために、悩みを語っただけなのではないだろうか?
 そんなことを考える。
 なるほど、自分の心に足りないものを何とか埋め合わせたくて、それで話を誰かにしなければ生きていけないとするならば、それは「悩み」と言ってもいいだろう。
 だけど、やっぱり違う。
 まるで、あの人の悩みはレジャーなのだ。スポーツでもいい。悩みをアピールさせやすくするため深刻そうに見せたり、他人の心に染み渡らせやすくするため社会に散らばった美しい言葉を使ってみたりする、一種のゲームを楽しんでいるように見える。その証拠に、毎週、毎月、同じような情景をあの人は、相手を変え、場所を変え、繰り返している。ぬりかべから見たら、「楽しんでいる」 しかし、あの人に言わせれば、「苦しみにもがいている」
 …

 思うんだけど。
 人には必ず悩みがあるわけで。
 誰もが悩みを持っていて、悩みのない人はいないわけで。
 でも悩み、と言うからには多様な手段を用いて乗り越えていかなければならないわけで、個性的であることを演出したかったんです、とか、実は気持ち良くなりたかっただけでした、なんていうのは醜いと思ってしまう。ごめんな、心の小さなぬりかべ。

 悩みがあるって言うんだったら、ここをこうして乗り越えようと工夫しています、とか頑張っていますとかの話を添えて聞きたいもんだなぁと思う。
 悩みとは、どんな形で僕は持ってます、こんな匂いがして味がしますということじゃなくて、いかにしてそれを調理して呑み込んだかなんじゃないかなと思ったりする。
紅葉シーズンですね。私が住んでいる辺りはまだちょっと早いですけど。
京都観光って、春より秋の方が人気なのでしょうか。その辺、実はあんまりよく分からないですけど、雑誌なんか見てると、京都での紅葉狩りってなかなか人気が高いようで。
けど、そんな赤く染まる景色って、私にはあんまり縁がないような…。

ちょっと外に出て、遠くの山並みが色づいているのに気付いて、「ああ、秋も深まったなぁ」なんて風流ぶることはあるんですけど(笑)地元にいればこそ「また、そのうちに」と先延ばしばかりで、ロクに京都の観光名所を訪れたことのない私。
清水寺デビューしたのは社会人になってからでしたし、金閣寺に行ったのも今年になってようやくという有様。
そもそも、もみじが赤く色づく頃って、結構、寒くなってくる時期なんですよねぇ。日頃、出不精で寒がりな私に「名所で紅葉狩り」が縁遠くなるのも、もっともな話(苦笑)

そんなサホにとって、赤よりむしろ黄色の銀杏こそが秋の色。
街路樹に、銀杏が植えられているところが割とあるからかもしれません。父の通勤ルートの大通りもそうでしたし、神社に植えられてたりもしますしね。

そのせいか、物心つく以前から、なぜか銀杏の葉っぱが大好きで。
秋になると、銀杏の落ち葉を拾っては大事に抽斗の中に仕舞ってたりとか(笑)
黄色の優しい色合いのせいかもしれませんし、他の樹木とはちょっと違ったあの扇型の葉が、子供心には特別に映ったのでしょうか。

小学生、いえ中学生になってからでしたでしょうか。銀杏って、実はとっても古い“生きた化石”的な植物だということも知り、ますます私の中で、不思議と心惹かれて止まなくなりました。
うまく説明出来ませんけど、落ちる葉にしみじみするけれど、遠い遠い太古の昔から、ずっとずーっと絶やさず生き延びていて。そんな生命のサイクルに、幼いながらもロマンをかきたてられたとでも申しましょうか…。

けれども、銀杏といえば、あれですよ。
ただキレイなだけでないのが如何ともし難く…

高校時代、銀杏並木をくぐって、自転車通学してたのですが、ただでさえ、ぎんなんのニオイってすごいのに、みんな踏み潰すので更なる悪臭が辺り一体を立ちこめるんですよ〜〜〜;;;
もう、黄色く色づいた葉を愛でるなんて悠長なことは言ってられません。息を殺して、猛スピードでそこを抜ける毎日……
桜並木の毛虫もイヤですけど、これも大概ですよねぇぇぇ。

今でこそ、ぎんなん嫌いもだいぶ改善されましたが、あのもっさりした歯ざわりのものを、なめらかな茶碗蒸しに入れる意味が分かりませんし、食すまでの、あのニオイを思い出したら、私的にはわざわざ食べる気が知れないんですよねー。←何たる言い草;

それでも色づいた銀杏は、やっぱり私にとって秋の色。
車中の窓越しに眺めては秋っぽい気分に浸ってみたり。もう少し秋も深まれば、今年もまた、そうやって、私を物思いに誘ってくれることでしょう。

あ。奇しくも、昨日は「赤」の恋人、今日は「黄色」の恋人って感じですね(笑)
どちらも物心つく前というところに、自分でも説明つかない愛の深さが秘められているのかも???

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